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2026年9月27日日曜日

Cさんのご冥福を祈る

  昨夜、Facebookを見ていて、私がフィリピンにいた時の知り合いのCさんが先日お亡くなりになったことを知った。
 私は在フィリピン日本大使館の日本広報文化センターで専門調査員として働いていて、Cさんは所長の秘書だった。
 今年1月、たまたま来日していたCさんと30年ぶりに武蔵小杉のショッピングモールでお会いしたばかりだった(注1)。
 (注1)知命庵: 日・フィリピン友好年を参照(クリックすると飛びます)

 その時はお元気そうに見えたが、何が起きるかわからないものだ。あの時にお会いしておいて本当に良かったと思う。
 私のフィリピン人の知り合いがいなくなってしまった。もう一人のフィリピン大学の教授は
とっくに亡くなっている(注2)。
 (注2)知命庵: コレヒドール島(Corregidor)を参照(クリックすると飛びます)

 とても残念だが仕方がない。次はマニラを再び訪問してCさんにお会いしたいと思っていたが、叶わぬ夢となった。

 友人、知人も高齢化しており、会いたいのならば早目に会うしかない。Cさんのご冥福を心よりお祈りいたします。

2026年9月8日火曜日

占領と単独講和

 75年前の1951年(昭和26)9月8日、サンフランシスコ講和条約(正式名称:日本国との平和条約)が調印された。
 翌年4月28日に条約は発効、6年8カ月の占領が終わり日本は独立したが、アメリカ主導による「単独講和」であった。
 講和条約条約締結と同時に、別に日米安全保障条約が締結され、現在に至る日米間の軍事的協力関係が定められた。

『写説 占領と単独講和』(ビジネス社、2006年)

 多くの人に周知のことであるが、私はよく理解できていなかったので、上掲の『写説 占領と単独講和』を購入した。
 「吉田茂は売国政治家か、希代の戦略家か」というサブタイトルが、本件への私の問題意識にピタリ一致していた。
 本著は、『今から振り返ると、吉田の「早期単独講和」の現実的な選択が正しかったといえるだろう』としている。

 一方で、「歴史の偶然、歴史のツキ(幸運)に日本は何度も恵まれた」とし、マッカーサーや朝鮮戦争を上げている。
 そして、「現在の日本を知るためには、やはり、アジア太平洋戦争、占領時代の経緯を振り返る必要がある」と結ぶ。
 確かに、沖縄の米軍基地や核開発・拉致被害者の北朝鮮などの問題は、戦後の状況の中で生まれてきたものである。

「ああモンテンルパの夜は更けて」 youtubeより

 また、7月投稿の安来市加納美術館(注)で触れた日本人戦犯の釈放が当時の流行歌と関係していたことを知った。
(注)知命庵: 安来市加納美術館を参照(クリックすると飛びます)

 渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」で、この曲のオルゴールがキリノ大統領に献上されたそうだ。
 オルゴールのメロディを聴いたキリノ大統領から、戦犯を釈放するというメッセージが届いたと書かれていた。

 1952年(昭和27)の歌で曲名しか知らなかったが、フィリピンにいた時にモンテンルパへ行っておけば良かった。

2026年7月11日土曜日

安来市加納美術館

 先日、安来市加納美術館を訪れた。加納莞蕾の絵画の収蔵のため創設されたが、寄贈されて安来市加納美術館となっている。
 加納莞蕾は、フィリピンのキリノ元大統領に日本人戦犯の助命を嘆願した人物であると、ある中小企業経営者から教わった。
 キリノ元大統領は、日本軍とのマニラ市街戦で妻と3人の子供を亡くしたにもかかわらず、日本人戦犯105人に特赦を与えた。

「加納莞蕾の願い」の碑

 その経緯について知るため、広島へ帰省した際に美術館を訪問すると決めていて、松江駅へ行く高速バスに乗った。
 松江駅から美術館までは車で約40分かかるが、鳥取市に在住する35年来の友人が松江駅まで車で迎えに来てくれた。
 入口の左側に「加納莞蕾の願い」の碑があった。「赦し難きを赦す」と書いてあり、キリノ元大統領の次の言葉が刻んである。

 'I do not want my children and my people to inherit from me hate for people who might yet be our friends for the permanent interest of the country.' 

加納莞蕾の絵

 名誉館長の加納佳世子氏と少し話をすることができた。近隣の小学校などで加納莞蕾の話をされているそうだ。
 私は、戦争の悲惨さを継承することよりも、平和の有難さを継承することの方が大切ではないかと思っている。
 戦争の悲惨さは、現在のウクライナや中東を見れば一目瞭然だし、もし戦争になれば嫌でも感じることになる。

 加納莞蕾やキリノ元大統領のように、将来の平和を創ることに努めた人達の話こそ後世に伝えるべきだと思う。

2026年1月7日水曜日

日・フィリピン友好年

 2026年は日本とフィリピンの国交正常化70周年に当たり、日・フィリピン友好年を記念するロゴマークが決定された。
 私は現在から30年前の1995年4月から1997年3月までの2年間、マニラにある在フィリピン日本大使館で専門調査員をしていた。
 在籍していたのは日本広報文化センター(JICC: Japan Information and Cultural Center)で、国費留学生の選考などを担当した。

日・フィリピン友好年を記念するロゴマーク
(在フィリピン日本大使館のホームページより)

 当時の日本大使館は、メトロマニラのブエンディア・アヴェニュー(旧Sen. Gil J. Puyat Ave.)の近くにあった。
 ある時、私が新聞記事を読みながら"corny"(陳腐)と言ったら、"Is it corny or horny?"という声が聞こえた。
 フィリピンでは珍しくないゲイのローカルスタッフからだった。hornyには好色という意味がある。

メトロマニラの地図(Primerマップより)

 昨日、日本広報文化センターで所長の秘書だった女性と武蔵小杉のモールで待ち合わせて30年ぶりに会った。
 ずっと音信不通になっていたが、私がFacebookのアカウントを取得したことがきっかけで連絡を取ることができた。
 日本で暮らしている息子夫婦と孫たちにクリスマスで会うため来日していたもので、思いがけない再会を喜び合った。

所長の秘書だった女性と会った武蔵小杉のモールの入口

 ゲイのローカルスタッフも、私が日本に帰った後に来日する機会があったらしいが、私は会うことができなかった。
 その後は今から20年以上前にマニラで交通事故に遭って亡くなってしまった。気の優しい良い男だった。Rest in peace.
 昨年7月に投稿した「コレヒドール島」(注)でも書いたとおり、フィリピンには、元国費留学生を始めとして日本に好意を持ってくれている人たちがたくさんいる。
 (注)「コレヒドール島」(知命庵: コレヒドール島(Corregidor))を参照

 日・フィリピン友好年のロゴマークは、「未来を共に織りなす:平和、繁栄、可能性」というテーマの下で決定された。両国の友好関係が永遠に続くことを祈る。

 

2026年1月2日金曜日

香港

 昨年末のニュースで香港の言論統制が厳しくなっていることが伝えられていた。1国2制度は有名無実化しつつある。
 私はフィリピンのマニラに住んでいた時に、家族旅行で一度だけ香港へ行った。まだ幼児の娘も一緒だった。
 着陸が難しいと言われる香港国際空港に、我々を乗せた飛行機が高層ビルを掠めるように降りていったのを思い出す。

「香港」 youtubeより

 台湾出身で香港でも活躍したテレサテンには「香港」という曲がある。中国の二胡を使用した前奏が私は好きだ。
 「星屑を地上に撒いた この街のどこかに」で始まる歌詞は、飛行機から見える香港の夜景をよく表している。
 「あぁ人はまぼろしの夢を追いかけて 生きているだけならば儚(はかな)すぎる」というサビには思わず頷く。 

「空港」 youtubeより

 テレサテンは1947年7月に発売されたデビュー2作目の「空港」がヒットし、日本レコード大賞の新人賞に選ばれた。
 「つぐない」や「愛人」という曲のヒットにより薄幸なイメージがあるが、実際には快活で可愛い女性だったのだろう。
 艶があって透き通るような歌声は日本人女性歌手には真似ができない。ビデオ映像を見ていて今でもそう思う。

「ジェルソミーナの歩いた道」 youtubeより

 1995年5月、静養のため訪れていたタイ・チェンマイのホテルで発作を起こし42歳の若さで亡くなった。
 「ジェルソミーナの歩いた道」は1981年2月発売のシングルで、ウェディングドレスで唄う映像が残っている。
 ジェルソミーナは1954年に公開された映画『道』の主人公で、知的障害を持ちながら懸命に生きた女性である。

 「佳人薄命」、彼女の肉声を聴くことはもうできないが、健気な姿と美しい声は映像として永遠に残るだろう。

2025年10月17日金曜日

Beautiful Life

  フィリピンではほとんどの人が英語を話す。セブやミンダナオ島のダバオへも行ったが、英語が通じるので助かった。
 タガログ語が混じってタグリッシュと呼ばれるが、普通の英語も話せる。フィリピン人は日本人より発音が良いと思う。
 ゴルフ練習場の順番待ちで"kodama"と書いたら「クダマ」と呼ばれた。"da"にアクセントがあると"ko"の発音は「ク」に近い。

"Beautiful Life" youtubeより

 そのゴルフ練習場で、ボールボーイ/ガールの子供達が空いている時間にAce of Baseの"Beautiful Life"に合わせて踊っていた。
 子供達はゴルフ練習場でドライバーショットのティーの代わりに土の上にボールをセットする。日本ではマシンの仕事である。
 辛い仕事をしているのに、みんな楽しそうに踊っていた。それが上手くて忘れられない。日本のアイドルグループ顔負けである。

"My Deja Vu" youtubeより

 Ace of Baseには"My Deja Vu"(既視感)という曲もある。ボールボーイ/ガールの子供達の映像はいつまでも頭に残っている。
 Ace of Baseは女性2人のボーカルに男性2人というメンバー構成とスウェーデン出身という共通点からABBAと比較されるが、かなり違っている。
 それにしても子供達が踊っていた曲が"Beautiful Life"というのは皮肉である。彼らの人生が "Beautiful"であることを祈る。



2025年10月15日水曜日

Macarena

 
"Macarena (Bayside Boys Remix)" youtubeより 

 前回の投稿でフィリピンにいた頃に流行っていた曲を取り上げたが、予想していた人からの反応が全くないので選曲を間違ったことに気づいた。
 その人は、Michael Learns to Rockの"That's Why"をカラオケでよく歌ったと言っていた。それなら今回の"Macarena"は知っているに違いない。
 スペイン人デュオのLos Del Rioが1993年にリリースした曲で、1995年にBayside Boys Remixのバージョンがシングルカットされ世界的に大ヒットした。

 マニラのフィリピン・バーでもよくリクエストされ、ステージの上で半分酔っ払った客がフィリピーナに手伝ってもらって歌っていた。
 曲がかかるとステージの前でフィリピーナ達が上手に踊り始める。その前に対面で踊る客も出てくるが、そんなに上手くはいかない。
 フィリピン人は日本人よりもきっと音感が優れている。セクシーで可愛いフィリピーナのマカレナ・ダンスを見て踊りたくならない人はいない。

2025年10月13日月曜日

Dream about You

  先日、マニラで仕事をしていた時に流行っていた曲のことを投稿したら、ある人から反応があったので、もう1曲紹介したい。
 スティービー・Bの"Dream about You"である。中南米の出身でスペイン語の方が得意なのか、非常にわかり易い英語の歌詞である。
 フィリピンはかつてスペイン領で米西戦争で米国に属したところがカリブ海の諸国と似ていて、マニラではメキシコの昼ドラが流行っていた。

"Dream about You" youtubeより

 同じCDに収録されていた"Waiting for Your Love"もわかり易い歌詞である。フィリピン人のメイドがよく聴いていたが、日本語みたいに聞こえる。
 遠くへ行ってしまった恋人を待ち続けるという何とも切ない曲であるが、幸せな境遇とは言えないメイドの気持ちに合っていたのだろうか。
 因みに、我が家は二人のメイドを住み込みで雇っていた。狭いメイド部屋で寝起きして、食事の世話や娘の子守をしてくれてとても助かった。

"Waiting for Your Love" youtubeより

 スティービー・Bは日本では"Because I Love You"の方が知られているだろう。何かのCMに確か使われていた。
 The Postman Songというのは、"I got your letter from a postman just the other day."という歌詞で始まるからである。 
 いずれの3曲もシンプルなメロディにわかり易い歌詞が載っており、フィリピンだけでなく日本でも受けそうな気がする。

"Because I Love You"(The Postman Song) youtubeより

    リズミカルな曲やレゲエっぽい曲も得意としており、そちらもいい感じである。スペイン語で歌うとやはり上手い。
 スティービー・Bの甘く柔らかな声とまったりとしたメロディの感じがフィリピン人の好みに合っていたのだろう。
 今でも、暑い季節に風もなくてうだるような気分の時に、スティービー・Bの曲を聴きたくなることがある。


2025年9月16日火曜日

Out of the Blue

 
"Out of the Blue"youtubeより

 私は、デンマーク出身のロックバンド、Michael Learns to Rockの曲で"out of the blue"という言葉を知った。
 仕事でフィリピンのマニラにいた時、Michael Learns to Rockの曲が流行っていて巷によく流れていた。
 因みに、乃木坂46にも"Out of the blue"という曲があるらしいので、若い人はよく知っている言葉かもしれない。

 私は、アルバム"Played on Pepper"(1995年)の中の"That's Why (You Go Away)"が好きだった。
 知人のフィリピン人の女学生は、アルバム"Colours"(1993年)の中の"Out of the Blue"の方が好きだと言った。
 Michael Learns to Rockは、シンプルなメロディに、英語がネイティブでないためか比較的わかり易い歌詞の曲が多い。

"That's Why (You Go Away)"youtubeより

 "out of the blue"は「思いがけないところから、出しぬけに」という意味のイディオムで、英英辞典では"unexpectedly"とある。
 故事成語の「青天の霹靂(へきれき)」は晴れた日に突然鳴り渡るかみなりのことであり、思いがけない事変や打撃の意にも用いられる。
 "out of the blue"というイディオムができたのは19世紀末らしいから「青天の霹靂」が関係しているかもしれない。

 そのフィリピン人の女学生は裕福な家庭の子ではなく、日本への国費留学生になることを希望していた。
 しかし、日本への留学は難しいと思っていて、誰か助けてくれる人が現れて欲しかったのかもしれない。
 "Out of the Blue"のサビは"You took me right out of the blue"という歌詞であり、突然に待ち人が現れる。

"25 Minutes"youtubeより

 アルバム"Colours"には、"25 Minutes"という曲も収録されている。私は帰国してからその存在を知った。
 "Boy, I missed your kisses all the time but this is twenty five minutes too late"という歌詞のとおり、25分遅れで別れてしまう。
 フィリピン人の女学生は仕事上の知り合いだった。今頃、昔のことを思い出している私は周回遅れもいいところだろう。

2025年7月2日水曜日

コレヒドール島(Corregidor)

『フィリピンの戦い 太平洋戦争写真史』より

 上記の地図は『フィリピンの戦い 太平洋戦争写真史』(1980年、月刊沖縄社)から拝借した。653頁で大量の写真(正視に耐えないものを含む)を掲載し定価で15,000円もするこの本を古本屋で見つけた時、私しか購入する人はいないだろうと思った。私が購入する理由は、1995年4月から1997年3月までの2年間、仕事の関係でフィリピンのマニラで暮らしたからである。
 当時はラモス大統領で、米国のウェストポイント陸軍士官学校卒のエリート軍人であった彼の治世は現在よりも安全だったかもしれない。スーパーマーケットやショッピングモールの入口には銃を持った警備員がいて、買い物をして出てくる時にはレシートを必ずチェックされたが、身の危険を感じたことはなかった。もっとも駐在している日本人のほとんどは、入口に検問のある、ヴィレッジと呼ばれる地域で暮らしていたが。

 マニラにいる時、アメリカ在住の尊敬する先輩からコレヒドール島へ行くことを勧められた。「コレヒドール」という言葉はなぜか記憶にあったが、それがどこで何があったところかは知らなかった。コレヒドール島は、上記の地図でわかるとおり、北東へ大きく入り込んだマニラ湾の西の入口にある。
 この島は、太平洋戦争において2度、激戦地となった。1度目は1941年12月、米国極東軍最高司令官であったマッカーサーが"I shall return"という有名な言葉を残して撤退した後に日本軍が上陸した時、2度目は1945年10月、彼が再上陸した時である。周囲9平方メートルに過ぎないオタマジャクシのようなかたちをした小島は、2度にわたって完膚なきまでに破壊された。


『フィリピン戦跡ガイド』より

 今は観光地となっているコレヒドール島へはマニラから船で行くことができる。休日に船に乗ろうとチケットを買いに来た私に、日本人のカモと思ったのかポン引き風のフィリピン人が"Are you a Japanese?"と話しかけてきた。気に食わなかったので"So, what?"(「だったら何?」)と応えたら、それ以上は何も聞いてこなかった。
 コレヒドール島で見たものはよく覚えていない。『フィリピン戦跡ガイド』(2016年、社会批評社)を見ると地下要塞となったマリンタ・トンネルなどの写真が載っているが、そんなに記憶に残っていない。コレヒドール島へ行くことを勧めてくれた先輩に何かお土産と思って、現地の資料のようなものを買って送った。

 フィリピン人は優しい。日本にあれだけ酷い目に遭わされたのに、普通の対応をしてくれる。他の隣国の対応と比べて、フィリピンだけが違っている。日本からODAをもらっているからだと思うかも知れないが、太平洋戦争の直後は日本がフィリピンから援助を受けていたことがあったと聞いたことがある。かつてスペイン領でカトリック教徒が多いことと関係があると見る向きもあるが、もともとのフィリピン人の性質ではないかと思う。
 マニラで仕事の繋がりから友達になった人にフィリピン大学の教授がいた。少数民族であるイフガオ族出身の彼は、日本への国費留学生の経験があり、見た目も性格も日本人以上に日本人だった。ルソン島北部にある彼の故郷のバナウエを訪ねた時、「何もないところですが」と言いながら、鷹を真似た民族舞踊と田んぼで採れた大きなタニシのような貝でもてなしてくれた。

 マニラでも普通の日本人は行かない大衆食堂で、ディノグアン(「血のスープ」の意味)という豚の臓物を豚の血で煮込んだものを彼は教えてくれた。私が帰国した後、彼が国際会議で来日した時に新宿のガード下で一度飲んだことがあった。人の良さそうな顔をした女将は彼がフィリピン人だとわかると、勘定でボッタクリみたいな金額を言ってきた。彼は怒っていたが、私は日本人が恥ずかしくてそのまま支払った。
 残念ながら、彼は10年ほど前に病気で亡くなってしまった。しかし、フィリピンには、元国費留学生を始めとして日本に好意を持ってくれている人たちがたくさんいる。フィリピンへ行く日本人のタチが悪いせいで、フィリピンという国に対する日本人の印象は今いちかもしれないが、それは日本人が悪いと思う。
 私の手元には、フィリピン大学の教授だった彼がお土産に持ってきたUP(University of the Philippines)のTシャツが2枚ある。