2025年7月2日水曜日

コレヒドール島(Corregidor)

『フィリピンの戦い 太平洋戦争写真史』より

 上記の地図は『フィリピンの戦い 太平洋戦争写真史』(1980年、月刊沖縄社)から拝借した。653頁で大量の写真(正視に耐えないものを含む)を掲載し定価で15,000円もするこの本を古本屋で見つけた時、私しか購入する人はいないだろうと思った。私が購入する理由は、1995年4月から1997年3月までの2年間、仕事の関係でフィリピンのマニラで暮らしたからである。
 当時はラモス大統領で、米国のウェストポイント陸軍士官学校卒のエリート軍人であった彼の治世は現在よりも安全だったかもしれない。スーパーマーケットやショッピングモールの入口には銃を持った警備員がいて、買い物をして出てくる時にはレシートを必ずチェックされたが、身の危険を感じたことはなかった。もっとも駐在している日本人のほとんどは、入口に検問のある、ヴィレッジと呼ばれる地域で暮らしていたが。

 マニラにいる時、アメリカ在住の尊敬する先輩からコレヒドール島へ行くことを勧められた。「コレヒドール」という言葉はなぜか記憶にあったが、それがどこで何があったところかは知らなかった。コレヒドール島は、上記の地図でわかるとおり、北東へ大きく入り込んだマニラ湾の西の入口にある。
 この島は、太平洋戦争において2度、激戦地となった。1度目は1941年12月、米国極東軍最高司令官であったマッカーサーが"I shall return"という有名な言葉を残して撤退した後に日本軍が上陸した時、2度目は1945年10月、彼が再上陸した時である。周囲9平方メートルに過ぎないオタマジャクシのようなかたちをした小島は、2度にわたって完膚なきまでに破壊された。


『フィリピン戦跡ガイド』より

 今は観光地となっているコレヒドール島へはマニラから船で行くことができる。休日に船に乗ろうとチケットを買いに来た私に、日本人のカモと思ったのかポン引き風のフィリピン人が"Are you a Japanese?"と話しかけてきた。気に食わなかったので"So, what?"(「だったら何?」)と応えたら、それ以上は何も聞いてこなかった。
 コレヒドール島で見たものはよく覚えていない。『フィリピン戦跡ガイド』(2016年、社会批評社)を見ると地下要塞となったマリンタ・トンネルなどの写真が載っているが、そんなに記憶に残っていない。コレヒドール島へ行くことを勧めてくれた先輩に何かお土産と思って、現地の資料のようなものを買って送った。

 フィリピン人は優しい。日本にあれだけ酷い目に遭わされたのに、普通の対応をしてくれる。他の隣国の対応と比べて、フィリピンだけが違っている。日本からODAをもらっているからだと思うかも知れないが、太平洋戦争の直後は日本がフィリピンから援助を受けていたことがあったと聞いたことがある。かつてスペイン領でカトリック教徒が多いことと関係があると見る向きもあるが、もともとのフィリピン人の性質ではないかと思う。
 マニラで仕事の繋がりから友達になった人にフィリピン大学の教授がいた。少数民族であるイフガオ族出身の彼は、日本への国費留学生の経験があり、見た目も性格も日本人以上に日本人だった。ルソン島北部にある彼の故郷のバナウエを訪ねた時、「何もないところですが」と言いながら、鷹を真似た民族舞踊と田んぼで採れた大きなタニシのような貝でもてなしてくれた。

 マニラでも普通の日本人は行かない大衆食堂で、ディノグアン(「血のスープ」の意味)という豚の臓物を豚の血で煮込んだものを彼は教えてくれた。私が帰国した後、彼が国際会議で来日した時に新宿のガード下で一度飲んだことがあった。人の良さそうな顔をした女将は彼がフィリピン人だとわかると、勘定でボッタクリみたいな金額を言ってきた。彼は怒っていたが、私は日本人が恥ずかしくてそのまま支払った。
 残念ながら、彼は10年ほど前に病気で亡くなってしまった。しかし、フィリピンには、元国費留学生を始めとして日本に好意を持ってくれている人たちがたくさんいる。フィリピンへ行く日本人のタチが悪いせいで、フィリピンという国に対する日本人の印象は今いちかもしれないが、それは日本人が悪いと思う。
 私の手元には、フィリピン大学の教授だった彼がお土産に持ってきたUP(University of the Philippines)のTシャツが2枚ある。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

素敵な思い出とともにフィリピン歴史、国民性をご紹介いただき、ありがとうございます。
ボランティアで在留外国人の子供に日本語を教えており、フィリピン出身の子供もいますが、いつもニコニコして穏和で陽気だと感じます。交流を通じてフィリピンの国民性の一端を感じます。

大鯰 さんのコメント...

コメントありがとうございます。子供はどこの国でも可愛いものです。マニラのゴルフ練習場でボールボーイ/ガールをしていた貧しい子供達が、空き時間に流行りの曲に合わせて楽しそうに踊っていたのを見たことが忘れられません。