2026年10月26日月曜日

落葉が雪に

「落葉が雪に」 youtubeより

 1976年10月発売の布施明の「落葉が雪に」。同年にはオリコンチャートで週間1位を獲得した曲である。
 ウィスキーかなにかのCMに使われて、「どうして僕は ここにいるのだろう」という歌詞が記憶に残る。
 作詞作曲が布施明だとは知らなかった。歌手のイメージが強いが、シンガーソングライターでもある。

 季節的には少し早過ぎるかもしれない。落葉はあるが、まだ雪は少ない。しかし、冬はもうすぐ来る。

2026年10月25日日曜日

安土往還記

『安土往還記』(新潮文庫、1972年)

 辻邦生(注)の『安土往還記』。最初の歴史小説で、尾張の大殿(シニヨーレ)として織田信長の半生を描いている。
 (注)知命庵: 辻邦生(クリックすると飛びます)

  文芸評論家の饗庭孝男は「辻邦生が(中略)一回かぎりの生を文学という想像力の所産のなかで全体的に永遠に意味あらしめたい、という渇望をいだいていることを私たちは理解する」と解説で書いている。
 私も、上記の投稿で、辻邦生の「あなた方一人ひとりの大事な一回こっきりの人生ですからね。(中略)この一回こっきりの自分というもの、自分のいまの世界を本当に大事にしてください」という言葉を紹介した。

 そんな辻邦生にとって、49歳で亡くなるまで人生を駆け抜けた織田信長という人物は恰好
の題材だっただろう。
 因みに、饗庭孝男は滋賀県大津市出身で、一族の故地の饗庭という地名は滋賀県高島市に現在も存在している。

2026年10月24日土曜日

遠くで汽笛を聞きながら

 
「遠くで汽笛を聞きながら」 youtubeより

 先日、谷村新司の「陽はまた昇る」(注)を投稿したが、今回はアリス時代の「遠くで汽笛を聞きながら」である。
 (注)知命庵: 陽はまた昇る(クリックすると飛びます)

 作詞は谷村新司だが作曲は堀内孝雄で、アリスの時は二人が交互にボーカルをしているバージョンもあるらしい。
 最後の歌詞は「自分の言葉に嘘はつくまい 人を裏切るまい 生きてゆきたい遠くで汽笛を聞きながら 何もいいことがなかったこの街で」である。

 それにしても汽笛をあまり聞かなくなった。帰省した時にコンテナを載せた長い貨物列車が通過する時ぐらいか。

2026年10月23日金曜日

李陵・山月記

『李陵・山月記』(新潮文庫、1969年)

 中島敦の小説を読むと、名文とはこういうものだろうと思う。漢文調の簡潔かつ叙情的な文章が心地よい。
 内容的にも中国の古典を題材にしても現在でも十分に通用するものであり、天才作家というのが相応しい。
 「李陵」は漢の武帝の時代に匈奴に捕らえられた将軍の話、「山月記」は狂って虎になった人の話である。

 中島敦は病弱のため33歳で亡くなった。しかし、解説のとおり「永遠に忘れられぬ作家」 の一人だろう。
 この本は古書店の軒先で50円で売られていた。また、まちライブラリー(注)へ寄贈しに行こうと思う。
 (注)知命庵: まちライブラリー(クリックすると飛びます)

2026年10月22日木曜日

霊長類ヒト科動物図鑑

『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫、1984年)
 
 先日の『父の詫び状』(注)に続き、向田邦子のエッセイ集を投稿する。『霊長類ヒト科動物図鑑』である。
 (注)知命庵: 父の詫び状(クリックすると飛びます))

 向田邦子は1981(昭和56)年8月、台湾への取材旅行中に航空機墜落事故で死去した。まだ51歳だった。
 飛行機嫌いで、今回のエッセイ集の「ヒコーキ」で「私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない」と書いている。

 最近は飛行機に乗らないが、海外勤務の時はよく乗った。大丈夫と思っていたが、向田邦子の気持ちがわかないでもない。

幸せになるため

「幸せになるため」 youtubeより

 1974年発売のハイ・ファイ・セット6枚目のシングル、「幸せになるため」。テレビドラマの主題歌だったらしい。
 私は長野に出張した時にたまたま中古店で見つけて買った『HI-FI BLEND PART 2』に収録されているのを聴いた。
 「川面に広がる 黄昏 もう一度 二人で歩いてみたい 迎えにゆこう 幸せになるため」という歌詞が心に沁みる。

 上掲のyoutubeの夕陽の映像の中に「瀬田夕日坂」が含まれていた。「瀬田の夕照」は近江八景(注)の一つである。
 (注)知命庵: 「近江八景」のコースターを参照(クリックすると飛びます)

邪馬台国近江説

『伊勢遺跡と卑弥呼の共立』(吉川弘文館、2024年)

 伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて広がる弥生時代後期の大規模遺跡である(注1)。
 (注1)伊勢遺跡を参照(クリックすると飛びます)

 平成7(1995)年に弥生時代の大型堀立柱建物が遺跡の中心部で発見されたことが報道され、邪馬台国近江説が一時話題となった。

『伊勢遺跡と卑弥呼の共立』(98頁)

 これは、当時は弥生時代後期が紀元3世紀とされていたためであり、その後の調査・研究により少し年代が遡ることとなった。
 現在は弥生時代後期は紀元1世紀~3世紀頃とされており、著者も「伊勢遺跡のこれらの建物が消長した時期を紀元60~180年頃」(109頁)と推定している。

 この結果、「伊勢遺跡は卑弥呼共立以降に発達した特異な集落ではなく、卑弥呼治世時にはその役割を完全に終えていた」(112頁)と、邪馬台国近江説は否定されている。
 一方で、「伊勢遺跡の最終段階が卑弥呼の共立とわずかながらも時間的な共有関係を有していたことは、むしろ重視されてもよい」(114頁)としている。

 私が気になるのはむしろその点である。卑弥呼が共立される前、倭国では大規模な戦乱、いわゆる「倭国大乱」が続いていたとされる。
 拙著『「びわ湖検定」でよみがえる』では、「多賀大社」で「倭国大乱」に触れ、「邪馬台国と狗奴国の争乱と考える説が有力」と書いた(注2)。
 (注2)『「びわ湖検定」でよみがえる』(209頁)

 また、「多賀大社が氏神様であったかどうかはともかくとして、犬上郡が狗奴国の一部であった可能性があるのかもしれない」とも書いた(注3)。
 (注3)『「びわ湖検定」でよみがえる』(210頁)

 さらに、拙著『やっぱり滋賀が好き』では、多賀大社の古例大祭の「富の木渡し式」について「和睦をしているようにも見える」とまで書いている(注4)
 (注4)『やっぱり滋賀が好き』(46頁)

 冒頭の本でも、伊勢遺跡が「邪馬台国の成立していく過程とは時間軸上密接な関係」(114頁)あったことは認めており、近江への興味は尽きない。