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| 『伊勢遺跡と卑弥呼の共立』(吉川弘文館、2024年) |
伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて広がる弥生時代後期の大規模遺跡である(注1)。
平成7(1995)年に弥生時代の大型堀立柱建物が遺跡の中心部で発見されたことが報道され、邪馬台国近江説が一時話題となった。
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| 『伊勢遺跡と卑弥呼の共立』(98頁) |
これは、当時は弥生時代後期が紀元3世紀とされていたためであり、その後の調査・研究により少し年代が遡ることとなった。
現在は弥生時代後期は紀元1世紀~3世紀頃とされており、著者も「伊勢遺跡のこれらの建物が消長した時期を紀元60~180年頃」(109頁)と推定している。
この結果、「伊勢遺跡は卑弥呼共立以降に発達した特異な集落ではなく、卑弥呼治世時にはその役割を完全に終えていた」(112頁)と、邪馬台国近江説は否定されている。
一方で、「伊勢遺跡の最終段階が卑弥呼の共立とわずかながらも時間的な共有関係を有していたことは、むしろ重視されてもよい」(114頁)としている。
私が気になるのはむしろその点である。卑弥呼が共立される前、倭国では大規模な戦乱、いわゆる「倭国大乱」が続いていたとされる。
拙著『「びわ湖検定」でよみがえる』では、「多賀大社」で「倭国大乱」に触れ、「邪馬台国と狗奴国の争乱と考える説が有力」と書いた(注2)。
(注2)『「びわ湖検定」でよみがえる』(209頁)
また、「多賀大社が氏神様であったかどうかはともかくとして、犬上郡が狗奴国の一部であった可能性があるのかもしれない」とも書いた(注3)。
(注3)『「びわ湖検定」でよみがえる』(210頁)
さらに、拙著『やっぱり滋賀が好き』では、多賀大社の古例大祭の「富の木渡し式」について「和睦をしているようにも見える」とまで書いている(注4)
(注4)『やっぱり滋賀が好き』(46頁)
冒頭の本でも、伊勢遺跡が「邪馬台国の成立していく過程とは時間軸上密接な関係」(114頁)あったことは認めており、近江への興味は尽きない。