2025年10月7日火曜日

王仁(わに)博士

  先日、湯島聖堂へ行った日、知人と昼食をした後で上野公園へ出かけた。実は、夕食も別のメンバーと一緒にすることになっていて、時間を潰す必要があった。
 週末のお昼過ぎとあって外国人観光客などで混んでいたが、まず寛永寺開山堂へ向かった。開山堂は一般に「両大師」と呼ばれ、二人の大師が祀られている。
 一人は寛永寺を開山した慈眼大師天海で、もう一人は天海が尊崇する元三大師良源であり、おみくじの始まりと言われる元三大師のおみくじを引きたかった。

東叡山 寛永寺のパンフレットより

 上記の山内図のとおり、JR上野駅の公園改札口を出て国立科学博物館の前を通り過ぎると東京国立博物館の右手に開山堂はある。
 その日は元三大師の月命日で朝は法要が営まれたようだが、私が訪れた時には閑散としていた。しかし、ここにも外国人観光客の姿があった。
 お参りを済ませて寛永寺のパンフレットを買い、元三大師のおみくじを引いた。おみくじのことは拙著『やっぱり滋賀が好き』の元三大師の項(122~124頁)で書いたので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。

「上野公園マップ」より

 開山堂を出てから上野公園の案内図を見ていて、西郷隆盛の銅像の手前に王仁博士の碑(上記マップの赤で囲んだ左の方)があることに気づいた。
 今まで王仁博士のことを何も知らなかったが、あることがきっかけで百済から日本に渡来し、千字文(漢字)と論語(儒教)を伝えたとされる伝承上の人物であると、最近になって知った。
 記紀に記述されているが、伝承上の人物ということで学校で教わらなかったのだろうか。中学や高校の歴史の授業で聞いた記憶がない。

王仁博士の碑

 王仁博士の碑は昭和初期に朝鮮人の発起により、日本からも有名な政治家や思想家も協賛
して建立された。当時の時代背景もあったのだろう。
 私が王仁博士を知るきっかけとなったのは、来月に訪問予定の滋賀県・近江八幡市にある日牟礼八幡の「日牟礼」の由来である。
 日輪(太陽)から来ていると伝えられているが、和邇氏・日觸使主(わにうじ・ひむれのおみ)の「日觸」が転じたものとする説がある。

 和邇氏は応神天皇に縁の深い近江土着の氏族とされている。王仁は、日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師(わにきし)と記されているらしいので、「和邇」と「王仁」が関係するのは間違いない。因みに、王仁は音読みすると「おうじん」となる。
 王仁は百済からの渡来人であるが、百済だけではなく新羅や高句麗からも海を渡って来たに違いない。近江には百済寺も新羅善神堂(三井寺)も高麗寺もある。
 渡来人が関係している古代史の話となると近江には多くの痕跡が残り、興味が尽きない。やっぱり近江は奥が深い。

2025年10月5日日曜日

湯島聖堂

  先週の金曜日、神田で知人とお昼を食べることになり、その前に散歩を兼ねて湯島聖堂へ行くことを思い付いた。
 神田明神へは何度も行っておりその途中で聖橋から湯島聖堂を見てはいたが、まだ一度も行ったことがなかった。
 事前にYoutubeで行き方を確認し、JR御茶ノ水駅の改札口を出て聖橋を渡って左の階段を降りて外堀通りを下るとすぐに入口があった。

杏壇門から入徳門を見下ろす

 仰高門から入って、孔子銅像を右手に見てから入徳門を潜って階段を上り、杏壇門から入って大成殿にお参りをした。
 外国人の数人のグループが大成殿をバックに記念写真を撮ろうとしていたが、私は罰当たりな気がして通り過ぎた。
 仰高門を出る手前の斯文会館で、近江聖人・中江藤樹の「致良知」のことも書いてあった『王陽明のことば』(斯文会、2005年)を購入した。

『王陽明のことば』(斯文会、2005年)

 斯文会館の受付の女性に、さだまさしの『檸檬』という歌の出だしの「あの日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて」といういうのはどこかと尋ねた。
 よく尋ねられるらしく、「イメージで書いたようだ」と答えつつ入徳門と杏壇門の間の階段ではないかと教えてくれた。
 もう一度行ってみたのが上記の写真だが、歌詞とは違って快速電車も各駅停車も見ることはできなかった(注)。

『檸檬』Youtubeより

(注)私の勘違いで歌詞では、聖橋から快速電車や各駅停車が見えるだけで、湯島聖堂から見えるとは言っていないことに今になって気づきました。
 




2025年10月1日水曜日

山本五十六

『大分県先哲叢書 堀悌吉』より

『大分県先哲叢書 堀悌吉』五峯録 山本文書 より

 9月が終わった。上記の写真と文書は、『大分県先哲叢書 堀悌吉 資料集 第三巻』(2017年、大分県立先哲史料館・編集)から拝借したものである。
 私は山本五十六元帥の声が録音されたテープを聞くことができる「如是蔵(にょぜぞう)博物館」へ行った際にこの叢書の存在を知り、親友だった堀悌吉との書簡が読みたくて郵送で一巻だけ購入した。
 五十六(敬称略)には遺書と言われるものがいくつかあるが、上記の「述懐」が戦死後に旗艦「武蔵」の長官私室の抽斗(ひきだし)から出てきたもので、日付は1942(昭和17)年9月末となっている。

 遡ること約10カ月の1941(昭和16)年12月8日未明に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まった。
 真珠湾攻撃を指揮したのは連合艦隊司令長官であった五十六で、米国との戦争に最後まで反対だったことは堀宛の書簡にも書かれている(下記参照)。
 五十六は名将か凡将か評価が分かれる。私の考えは後ほど述べるが、私の好きな五十六について今回は書いてみたい。

『大分県先哲叢書 堀悌吉』
五峯録 山本ヨリ堀宛書簡摘録 より

 生まれた時の父親の年齢から「五十六」と名付けられたことぐらいしか知らなかったが、阿川弘之の『山本五十六』(新潮文庫、1973年)を読んで、その印象が大きく変わった。
 五十六に関する本はたくさんあるが、私は阿川弘之の本が一番いいと思う。20歳年下の「千代子」さんのことが書かれているからである。
 遺族から抗議が出て訴訟問題にまで発展したため、阿川弘之は旧編を絶版とし、新資料による約三百枚の補筆を加えて『新版・山本五十六』を上梓した。

 五十六はワシントンの日本大使館で駐在武官だったし、ボストンのハーバード大学へ留学もしていたので、米国との戦争に反対だったのは理解できる。
 私もマンハッタンに約1年住んでいたが、ニューヨークのエンパイアステートビル、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ、全国各地のフリーウェイが戦前に既に存在した国と戦争して勝てるとは思えない。
 博打が好きでポーカーが強かったと言われる五十六は、タイミングを見て早めに和睦するしかないと思っていただろう。

私が住んでいた頃のマンハッタンの夜景
『マンハッタンかるちゃあスクール』より
(佐藤紘彰、フリープレスサービス、1990年)

 五十六が長岡の出身というのも不幸なめぐり合わせである。長岡は戊辰戦争で河井継之助が賊軍として薩長に敗れた。
 河井継之助と共に戦った山本帯刀の山本家を継ぐため養子となった五十六は、郷土の英雄として河井を尊敬していた。
 軍隊を支配する薩長の前で、米国に勝てないとわかっていても戦えないと口にすることは屈辱だっただろう。 

 阿川弘之の『山本五十六』には、「山本は、殉職者の名前を書きこんだ手帖をこっそり出して眺めて、よく涙を浮かべている事があった」とか、海軍次官時代に戦死したかつての部下の弔問の際に号泣したことが書かれている。
 五十六は将校としては情が深すぎたと私は思う。部下を犠牲にしても最後まで戦い、沈没する艦と運命を共にする艦長のような人が将校には望ましい。
 1943(昭和18)年4月18日、五十六はブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。5月21日に大本営から発表され国葬に付されたが、当時の国民は相当ショックだったに違いない。

「ブーゲンビル島」NHKより

 この戦死は自殺のようなものだと思う。暗号が解読されていたという話もあるが、旗艦の「武蔵」で指揮を取り前線へ行かなければ死なずにすんだ。
 しかし、米国との和睦が進まず勝てないことが明らかになった後、五十六に生きて戦後を迎える選択はなかったのではないだろうか。
 博打が好きで、20歳も年下の好きな人がいて、部下の戦死に号泣せずにいられなかった、そんな人間臭い五十六のことが私はどうしても好きである。




2025年9月26日金曜日

ジパング俱楽部

 先日、ジパング俱楽部へ入会を申し込み、下記の手帳が送られてきた。有効期間は1年間で更新手続きをすることになっている。
 65歳以上は乗車券や特急券が一部を除き2割または3割安くなるので、私のように広島との行き来を繰り返す人には重宝である。
 会員手帳の表紙の裏側に顔写真を張り付ける必要があり、コンビニの自動写真機で撮ったが、顔が大きいので苦労した。

ジパング俱楽部 会員手帳(新規)

 今まではエクスプレス予約サービスを使っていた。関西に単身赴任していた時に知人から教わってEX-ICカードを作った。
 乗車の直前まで何度でも乗車変更が手数料なしでできるし、チケットレスなので発券する手間がかからず便利だった。
 今はなくなったサービスだが、ポイントが貯まると普通列車の料金でグリーン車に乗れるのも有難かった。
 
エクスプレス予約のEX-ICカード

 しかし、年金暮らしの私にとって料金の割引は魅力であり、これからはジパング倶楽部が主力になる。
 「のぞみ」はジパング俱楽部の割引対象外なので、「ひかり」や「こだま」を利用することになるが仕方ない。
 自分の自由になる時間はあるし、そんなに急いで目的地へ行く必要もない。慣れれば苦にならないと思う。

 ジパング俱楽部の割引を受けるには緑の窓口で切符を購入する必要があり、早速出かけてみたところ10人ほど順番待ちになっていた。
 指定券の購入は1カ月前の10時からで、緑の窓口が開くのは9時からなので10時前に行くと順番を確保してくれるようになっていた。
 ジパング俱楽部で切符を無事買うことができた。一昨年に故人となった谷村新司の作詞・作曲による『いい日旅立ち』が脳裏に去来している。

『いい日旅立ち』youtubeより



2025年9月17日水曜日

If You Don't Know Me by Now

"Nothing Compares 2 U" youtubeより

  ニューヨークの思い出にMTVがある。"Nothing Compares 2 U"のシンニード・オコーナーはスキンヘッドだったが、やはり美人だった。
 デビューしたばかりのマライヤ・キャリーやM.C.ハマーの独特なダンスも記憶にあるが、シンプリー・レッドの曲が気に入った。
 CDを買いに店に行ったが見つけられずに困っていると、黒人の店員が話しかけてきて私が曲を口ずさんだら見つけてくれた。

"If You Don't Know Me by Now" youtubeより

 上記のアルバム"A New Flame"の2曲目が"If You Don't Know Me by Now"である。ロック調のスローな曲で、私でも口ずさむことができた。
 直訳すると「今でも私のことが理解できないのなら、私を決して理解できないだろう」というような意味のラブソングである。
 ハロルド・メルヴィンのジャズのヒット曲をカバーしたものだと後になって知った(参考までにそのバージョンは下記のとおり)。

ハロルド・メルヴィンの"If You Don't Know Me by Now" youtubeより

 音楽は基本的にオリジナルが一番いいと私は思っているが、シンプリー・レッドの"If You Don't Know Me by Now"は例外である。
 ネットで調べてみると、オーケストラ・バージョンみたいなのもある。日本人でも歌っている人がいるので、やはりいい曲なのだろう。
 邦題は「二人の絆」となっており、歌詞の意味からするとそうだとしても、やはり"If You Don't Know Me by Now"の方がいい。

2025年9月16日火曜日

Out of the Blue

 
"Out of the Blue"youtubeより

 私は、デンマーク出身のロックバンド、Michael Learns to Rockの曲で"out of the blue"という言葉を知った。
 仕事でフィリピンのマニラにいた時、Michael Learns to Rockの曲が流行っていて巷によく流れていた。
 因みに、乃木坂46にも"Out of the blue"という曲があるらしいので、若い人はよく知っている言葉かもしれない。

 私は、アルバム"Played on Pepper"(1995年)の中の"That's Why (You Go Away)"が好きだった。
 知人のフィリピン人の女学生は、アルバム"Colours"(1993年)の中の"Out of the Blue"の方が好きだと言った。
 Michael Learns to Rockは、シンプルなメロディに、英語がネイティブでないためか比較的わかり易い歌詞の曲が多い。

"That's Why (You Go Away)"youtubeより

 "out of the blue"は「思いがけないところから、出しぬけに」という意味のイディオムで、英英辞典では"unexpectedly"とある。
 故事成語の「青天の霹靂(へきれき)」は晴れた日に突然鳴り渡るかみなりのことであり、思いがけない事変や打撃の意にも用いられる。
 "out of the blue"というイディオムができたのは19世紀末らしいから「青天の霹靂」が関係しているかもしれない。

 そのフィリピン人の女学生は裕福な家庭の子ではなく、日本への国費留学生になることを希望していた。
 しかし、日本への留学は難しいと思っていて、誰か助けてくれる人が現れて欲しかったのかもしれない。
 "Out of the Blue"のサビは"You took me right out of the blue"という歌詞であり、突然に待ち人が現れる。

"25 Minutes"youtubeより

 アルバム"Colours"には、"25 Minutes"という曲も収録されている。私は帰国してからその存在を知った。
 "Boy, I missed your kisses all the time but this is twenty five minutes too late"という歌詞のとおり、25分遅れで別れてしまう。
 フィリピン人の女学生は仕事上の知り合いだった。今頃、昔のことを思い出している私は周回遅れもいいところだろう。

2025年9月12日金曜日

9.11米国同時多発テロ

NHKニュースより


 9月11日の前後は、2001年9月11日に起きた米国同時多発テロのことがニュースで取り上げられる。私もこの事件は強く記憶に残っている。
 日本時間で火曜日の21時46分というから職場から帰宅していた。乳児の息子を風呂に入れようとしている時、テレビに衝撃的な映像が現れた。
 ニューヨークの世界貿易センタービルに何かが衝突し炎上している。背後にこれから突入しようとしているジェット機の姿が不気味に見える。

NHKニュースより

 10年前の1990年、私は仕事でニューヨークにいた。8月2日にイラクが隣国のクウェートに侵攻し、アメリカの対応が注目されていた。
 日本人駐在員が全員出席する会議で、アメリカがイラクを空爆するか否かについて挙手を求められ、空爆しないという人が大半だった。
 しかし、在米15年以上のある駐在員は空爆するに手を挙げた。理由は「アメリカは準備ができていない」というもので、その通りになった。
 空爆が始まった時は日本料理店で同僚と飲んでいて、テレビの空爆の映像をインベーダーゲームのようだと思った記憶がある。

CNNより

 湾岸戦争が始まり、地上戦が行われた。シュワルツコフ中央軍司令官とパウエル統合参謀本部議長は 記者会見で戦況を報告した。
 casualtyという言葉が聞き取れた。私は事故という意味しか知らなかったが死傷者のことだった。戦争で人が死ぬのは当たり前である。
 戦死者の遺体が入った棺桶は星条旗に包まれ、ニューヨークをパレードして民衆の喝采を浴び、ワシントンのアーリントン墓地に葬られる。

 アメリカは戦争がある方が求心力が高まるように思った。世界最強の軍隊を持つアメリカは毎年のようにどこかで戦争をしている。
 軍隊は戦死者を埋葬する墓地や遺族への恩給を含めて巨大なシステムだと思う。システムを持つ国は必要とあらば実力行使を辞さない。
 湾岸戦争が遠因となり米国同時多発テロは起きた。それから四半世紀近く経つが、戦争はなくならず不必要な死が繰り返される。