2025年10月1日水曜日

山本五十六

『大分県先哲叢書 堀悌吉』より

『大分県先哲叢書 堀悌吉』五峯録 山本文書 より

 9月が終わった。上記の写真と文書は、『大分県先哲叢書 堀悌吉 資料集 第三巻』(2017年、大分県立先哲史料館・編集)から拝借したものである。
 私は山本五十六元帥の声が録音されたテープを聞くことができる「如是蔵(にょぜぞう)博物館」へ行った際にこの叢書の存在を知り、親友だった堀悌吉との書簡が読みたくて郵送で一巻だけ購入した。
 五十六(敬称略)には遺書と言われるものがいくつかあるが、上記の「述懐」が戦死後に旗艦「武蔵」の長官私室の抽斗(ひきだし)から出てきたもので、日付は1942(昭和17)年9月末となっている。

 遡ること約10カ月の1941(昭和16)年12月8日未明に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まった。
 真珠湾攻撃を指揮したのは連合艦隊司令長官であった五十六で、米国との戦争に最後まで反対だったことは堀宛の書簡にも書かれている(下記参照)。
 五十六は名将か凡将か評価が分かれる。私の考えは後ほど述べるが、私の好きな五十六について今回は書いてみたい。

『大分県先哲叢書 堀悌吉』
五峯録 山本ヨリ堀宛書簡摘録 より

 生まれた時の父親の年齢から「五十六」と名付けられたことぐらいしか知らなかったが、阿川弘之の『山本五十六』(新潮文庫、1973年)を読んで、その印象が大きく変わった。
 五十六に関する本はたくさんあるが、私は阿川弘之の本が一番いいと思う。20歳年下の「千代子」さんのことが書かれているからである。
 遺族から抗議が出て訴訟問題にまで発展したため、阿川弘之は旧編を絶版とし、新資料による約三百枚の補筆を加えて『新版・山本五十六』を上梓した。

 五十六はワシントンの日本大使館で駐在武官だったし、ボストンのハーバード大学へ留学もしていたので、米国との戦争に反対だったのは理解できる。
 私もマンハッタンに約1年住んでいたが、ニューヨークのエンパイアステートビル、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ、全国各地のフリーウェイが戦前に既に存在した国と戦争して勝てるとは思えない。
 博打が好きでポーカーが強かったと言われる五十六は、タイミングを見て早めに和睦するしかないと思っていただろう。

私が住んでいた頃のマンハッタンの夜景
『マンハッタンかるちゃあスクール』より
(佐藤紘彰、フリープレスサービス、1990年)

 五十六が長岡の出身というのも不幸なめぐり合わせである。長岡は戊辰戦争で河井継之助が賊軍として薩長に敗れた。
 河井継之助と共に戦った山本帯刀の山本家を継ぐため養子となった五十六は、郷土の英雄として河井を尊敬していた。
 軍隊を支配する薩長の前で、米国に勝てないとわかっていても戦えないと口にすることは屈辱だっただろう。 

 阿川弘之の『山本五十六』には、「山本は、殉職者の名前を書きこんだ手帖をこっそり出して眺めて、よく涙を浮かべている事があった」とか、海軍次官時代に戦死したかつての部下の弔問の際に号泣したことが書かれている。
 五十六は将校としては情が深すぎたと私は思う。部下を犠牲にしても最後まで戦い、沈没する艦と運命を共にする艦長のような人が将校には望ましい。
 1943(昭和18)年4月18日、五十六はブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。5月21日に大本営から発表され国葬に付されたが、当時の国民は相当ショックだったに違いない。

「ブーゲンビル島」NHKより

 この戦死は自殺のようなものだと思う。暗号が解読されていたという話もあるが、旗艦の「武蔵」で指揮を取り前線へ行かなければ死なずにすんだ。
 しかし、米国との和睦が進まず勝てないことが明らかになった後、五十六に生きて戦後を迎える選択はなかったのではないだろうか。
 博打が好きで、20歳も年下の好きな人がいて、部下の戦死に号泣せずにいられなかった、そんな人間臭い五十六のことが私はどうしても好きである。




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