信楽は滋賀県南部の甲賀市にあって信楽焼で有名である。信楽がどこにあるか知らなくても、信楽焼の狸の置物を知らない人は少ないだろう。商売繁盛と書かれた通帳を持った狸が店先によく置いてある。
今までに滋賀県について二冊のエッセイ集を出版したが、一冊目の第4章「経済」の中の「ものづくり県」で地場の伝統工芸として信楽焼のことを書いただけで、それ以外は信楽に触れてこなかった。
その理由は信楽へほとんど行ってなかったからである。大津にいた時も信楽へは一度しか出かけていない。年一回の陶器祭の知らせが届いた時も、元気がなかったので行かないまま済ませてしまった。
信楽を訪れようと思ったのは紫香楽宮を知ったからである。藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)の乱(740年)の中、聖武天皇は東国へ行幸し、恭仁京(くにきょう)、難波京(なにわきょう)、紫香楽宮へ遷都した後、平城京へ戻った。
『大仏造立の都 紫香楽宮』(新泉社、2005年)にはこの彷徨の詳しい説明が記載されている。今回、信楽へレンタカーで訪問することにして、おごと温泉に前泊した。紫香楽宮跡の近くでの宿泊も考えたが、温泉に泊まりたかった。
私の関心は紫香楽宮を巡る聖武天皇の彷徨ではなく「なぜ紫香楽宮という漢字が当てられたのか」という点にある。その答えとしてこれから書くことは、私の妄想であり根拠がある訳ではないことを予めお断りしておく。
信楽の読みは新羅と同じ「しんら」である。因みに、古代史研究家の金達寿(きむたるす)氏は『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫、1985年)で「『シガラキ』というのは、もちろん新羅(しらぎ)ということばのなまったもの」と書いている。
仮にそうだとして、信楽宮では何故だめだったのだろう。日本の都を新羅宮と呼ぶことを避けたのか。新羅に滅ぼされた百済と関係のある人々が嫌がったのか。何らかの理由で「信楽」ではなく「紫香楽」を用いたのではないだろうか。
紫香楽宮跡へ行く途中、MIHO MUSEUMに立ち寄った。信楽へ行くと友人に話したら訪問を勧められたからで、コレクションに驚いた。常設展示物をざっと見ただけだが、美術品に詳しくない私にも本物だとわかる。
エジプト、ギリシャ・ローマ、西アジア、南アジア、中国・西域と順に展示され、その質の高さに圧倒された。古代の人は何故こんなものを造ることができたのか。同じものを現代の人は造ることができるのだろうか。
足早にMIHO MUSEUMを後にしたが、紫香楽宮跡へ行く時間はもうなかった。カーナビで草津駅を目的地にすると同じ場所を何度も通る。最終的に信楽インターを目的地にしたら、インターの手前で紫香楽宮跡の横を偶然通過した。
窯元を訪ねて信楽焼の狸の置き物を買いたいと思っていたが、それもおあずけになった。大津駅前の滋賀県観光物産情報センターで買って会社の事務所に置いていた狸を気に入っていたので、同じものを探していた。
『やきもの鑑定入門』(芸術新潮編集部、1983年)の中で、土門拳が「わが信楽」として「信楽の壺にみられるそれらの魅力のすべては、天工になるものである」と言うとおり、信楽の魅力は土そのものの魅力である。
新名神高速道路の信楽インターができたとはいえ、電車で行くには草津線を貴生川で信楽高原鉄道に乗り換える必要があり信楽は交通の便がいいとは言い難い。なぜここに聖武天皇は都を造ったのだろうか。
前出の『大仏造立の都 紫香楽宮』によれば恭仁京から東北道が開かれたという。恭仁京の東からでる30余kmの山間の道であり、実際に歩いてみると尾根道で景観の良さに疲れを忘れると書かれている。
現在の紫香楽宮跡は発掘後に田んぼに戻っており、展示室で出土遺物の一部を見ることができるらしい。それならば紫香楽宮跡の横をレンタカーで通過しただけで十分かもしれないが、いつか奈良から尾根道伝いに信楽を訪ねたい。
(2022年1月3日)
2 件のコメント:
NHK朝ドラ「スカーレット」を通じて、信楽のことを少し知っていた程度でした。
歴史を教えていただき、勉強になりました。
コメント、ありがとうございます。私もそんなに知っている訳ではありません。ただ、近江という土地は文物の方から何かを教えてくれるような、そんな気がします。
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