2025年7月30日水曜日

墓じまい

  私は広島県南部の呉市で生まれた。かつての軍港を見下ろす高台にあった借家に、祖母、両親、姉と私の5人で暮らしていたが、父が広島市の近くに家を建てたので、小学校3年の終わりに引っ越した。
 借家の玄関前は細い路地になっていて、路地を出て大きな通りを隔てたところに小学校があった。小学校の軒下にできた氷柱(つらら)をランドセルに入れて私が帰宅したことがあったと母が話していたが、それくらい近い距離だった。
 小学校のそばに戦艦大和の艦橋をかたどった塔があった。旧呉海軍工廠で戦艦大和が建造されたためで、1969年の第30回大和進水日(8月8日)を記念して建てられたというから、私が転校する前の年に当たる。

戦艦大和の塔

 幼い頃、父に連れられて近くの大きな公園で自転車の練習や凧揚げをした記憶がある。当時は今のように子供用の小さな自転車はなく、大人の自転車でいきなり練習をしたので、乗れるようになるまで何度も転んだ。
 凧は走って揚げると癖がつくので、風を使ってなるべく止まったままで揚げるように言われた。とても広い公園だったので電線にひっかかる心配もなく、新聞紙で作った足を自分で付けた奴凧を揚げていた。
 その公園のことを父は「れんぺいじょう」と呼んでいた。私はそういう名前だと思っていたが、大人になってから「練兵場」だったことに気づいた。旧海軍の第一練兵場は、現在、「呉市民広場」となっている。

呉市民広場(旧練兵場)

 広島へ引っ越した後も、墓だけは呉に残っていた。休山の登山口に続く道沿いにある市営墓地へ行く道路は狭くて、対向車とすれ違うのは大変だった。父の墓参りに母は呉駅からタクシーで行き、そのタクシーで駅まで戻っていた。
 母が亡くなって数年経ち、姉もなかなか行くのが難しいし、私自身お参りするのがしんどくなってきたので、このたび東京へ改葬し墓じまいすることになった。
 呉市役所に届を出し改葬許可証の交付も受けており、8月のお盆明けに工事請負業者の立ち合いのもと更地になったことを確認し、遺骨を受け取る手はずになっている。

休山から見た呉港

 我が家の墓の隣は呉で近所だった家の墓である。敷地の広さはほぼ同じであるが、二つの墓が立っている。一つは普通の墓だが、もう一つは立派な軍人の墓である。祖母が仲良くしていたおばあさんが軍人墓地から移転させたと聞いていた。
 おばあさんには三人の息子がいたが、長男は夭折し、次男と三男は戦死した。私の父も同世代であったが、理系に進んだので戦争へ行かずに済んだ。しかし、おばあさんの息子二人は海軍へ入った。
 墓石には次男の戦死は昭和20年初め、三男の戦死は同年8月1日と刻まれている。ボツダム宣言が発せられたのは同年7月26日、もうすぐ終戦記念日の8月15日を迎えるが、おばあさんはさぞかし無念であったろうと思う。



2025年7月26日土曜日

辻邦生

 一般的に、同じ小説を複数回読むことは少ないのではないだろうか。とても面白いと思っても他にもたくさん作品があるのでなかなか同じものを繰り返して読む気にはならない。
 私の場合、辻邦生の『背教者ユリアヌス』だけは3回読んでいる。高校生の時に誰かに紹介されて文庫本を読み、就職後と定年・再就職後に単行本を読んだ。
 かなりの長編であり今でもよく読めたと思うが、内容的に何か惹かれるところがあったのだろう。長編作品は一旦面白いと思うと結末まで読まずにはいられなくなる。

『背教者ユリアヌス』(中央公論社、1972年)

 段ボール紙で装丁された中央公論社の単行本に、「(前略)雄大な規模を持つ二千枚の長篇が、一章を読み終らぬうち、たちまちに我々を魅了し、息つくまもなくぶ厚い人間と歴史の奔流の中へと巻き込んでゆく。(後略)」と北杜夫は書いている。
 叙事文学の体裁を取りながら、哲学者皇帝ユリアヌスと先帝の美貌の皇后エウセビアとの禁断の恋をからませて絵巻のように物語が展開していく。北杜夫は「(前略)小説の醍醐味を私は堪能した。」とも書いている。
 ローマ帝国の歴史をよく知らない私でも、ヨーロッパ全土にわたる壮大なスケールと登場人物の面白さに加え、「背教者」という言葉の響きが印象に残った。3回読んでも飽きることはなく、辻邦生の作品の中では一番好きである。

『天草の雅歌』(新潮社、1971年)

 辻邦生でもう一つ好きな作品を上げれば『天草の雅歌(がか)』である。単行本の帯には「鎖国派と海外交易派の政争の渦中で、混血の美女との愛を生きる支えにして、時代の権力に挑んだ長崎奉行所の通辞をとうして描く、鎖国をめぐるロマン」とある。
 単行本の帯の裏には「(前略)私たちがかつてたのしい作品を前にして感じた興奮と、期待と、不可思議なおののきとを、もう一度、〝小説〟のなかに取り戻してみたいと思ったのである。(後略)」という作者のことばがあった。
 私は地下鉄でドアにもたれてこの本を読んでいる時、悲恋の結末に感極まって思わず落涙しそうになったことがある。急にポケットからハンカチを出して顔を隠した私を、周囲の人は変な奴だと思っただろう。

「春の戴冠・嵯峨野明月記 展」の冊子の表紙から

 辻邦生は整った顔立ちの人だった。上記の写真は2016年に学習院大学史料館で開催された「春の戴冠・嵯峨野明月記 展」で入手した冊子の表紙に掲載されたものである。小さいのでわかりにくいが、二枚目の雰囲気がある。
 この顔でフランス語ができて、学習院大学文学部フランス文学科で教授等をされていた。上記の展示会へ行った際、受付の上品な女性に「辻先生はもてたでしょうね」と声をかけたところ、「それはもう」という答えが返ってきた。
 私は拙著『やっぱり滋賀が好き』のまえがきで、辻邦生の『言葉の箱ー小説を書くということ』(メタローグ、2000年)から、「あなた方一人ひとりの大事な一回こっきりの人生ですからね。(中略)この一回こっきりの自分というもの、自分のいまの世界を本当に大事にしてください」という彼の言葉を紹介しており、人生に対する姿勢が好きである。





2025年7月23日水曜日

I Need You

Best of Soul Ballad のジャケット

 ソウル・バラードの名曲、モーリス・ホワイトの"I Need You"。裸の背中を見せて横たわる女性のジャケットに釣られて買ったCDの1曲目に入っていた。
 この人が歌った曲は、私はこれしか知らない。調べてみると、アース・ウィンド・アンド・ファイアーのバンドリーダーで、生涯唯一のソロアルバムに収録されたらしい。
 メロウな感じのスローなテンポで始まる曲が、"You say"でいきなり転調し"I need you"と高らかに歌い上げる。その歌声は圧倒的で、何度聴いても思わず口ずさみたくなる。

"I Need You" youtubeより

 防弾少年団(BTS)の"I NEED U (Japanese Ver.)"もいい。デビュー3年目にして音楽番組で1位を獲得した曲だけのことはある。
 韓流には何の興味もなく、「『冬のソナタ』のペ・ヨンジュンとペヤング・ソース焼きそばは何か関係があるのか」などとふざけたことを言っている私であるが、知り合いの韓流好きの男性に教えてもらった
 サビの部分で合いの手のようにテンポ良く"I need you girl"が繰り返される。見た目だけのアイドルグループと思っていたが、楽曲もしっかり作られている。

"I NEED U (Japanese Ver.)" youtubeより

 最後はバリー・マニロウの"Mandy"である。1974年にレコーディングされ、Billboard Hot 100で第1位を獲得した。
 かつての恋人の優しさを理解できず、遠くへ追いやってしまったことを悔やみ、Mandyという彼女の名前を繰り返し叫ぶ。
 タイトルは"I need you"ではないが、曲のラストの部分で、"And I need you"と歌い上げるバリー・マニロウの声は余韻となって耳に残る。

"Mandy" youtubeより

 "I need you"は"I love you"よりも強い表現である。単に愛しているだけではなく、必要としている。生きていく上でかけがえの無い存在である。その人がいなくては生きていく意味が感じられない。
 そんな"I need you"と言いたくなる人があなたにはいますか?


2025年7月20日日曜日

私の本棚

私の本棚の一部


 三省堂の新明解国語辞典(第七版、2012年)によれば、ブログとは「個人が日記形式で書き込めるウェブサイト。開設者は身辺の出来事や、その感想を記したりし、閲覧者はそれにコメントを記すことができる。」とされている。
 近所の珈琲豆焙煎所で「ブログの閲覧数が伸びない」と愚痴っていたら、ご主人が「今日の出来事を書いてみたらどうですか」と言われたので、昨日、本を売りに古書店へ行った話を書いてみることにする。

 私の小さな部屋には本棚が二つある。一つは近くにあった府中家具店の閉店セールの時に買ったガラス扉付きのもので20年近く愛用しているが、奥行きがあって多くの本が置けないので、下部がレール付きで前後に文庫本などを置ける本棚をニトリで購入した。
 そんなに本を買う方ではないが、辻邦生が好きで単行本があれば買ったり、滋賀に関する本を見つけては買っていたら、徐々に本が増えてしまった。そこで、本当に残したい本と執筆の資料となった本以外は処分することにした。

 主に近所のブックオフへ持っていったが、古い単行本はISBN(国際標準図書番号)がないとか状態が悪いという理由で値段が付かないことが多かった。先日、最後に残った辻邦生の本などを20冊ほど持って行ったが、2冊しか値段が付かないと言われた。
 一旦そのまま持ち帰ることとし、昨日、値段の付いた本を含めた3冊を別の古書店へ持って行ったところ全て値段が付かないと言われた。念のため、もう1軒古書店を当たってみたが、そこでも値段は付かないと言われた。

 結局、再びブックオフへ持ちこんだところ、ISBN(国際標準図書番号)がある比較的最近の本が150円で売れた。ブックオフも古書店も売れない本を買う訳にはいかないので、仕入れに厳しいのは当然であり、査定に不満はない。
 ただ、一般的には古い本はブックオクでは値段が付かないが古書店では買ってもらえると思っていたが、そういうことでもないらしい。写真は最終的に残った私の好きな本である。売ることはないが、値段が付かないのは間違いない。

2025年7月16日水曜日

鯖街道③

現在、滋賀や京都で食べられている鯖の多くは、「鯖街道」の起点の若狭湾よりも、国内の他の産地やノルウェー産のものが多いと聞いた。
このことを教えてくれた株式会社アクアステージの大谷洋士社長は、滋賀県の山中で海水魚(トラフグ、ヒラメ、マサバ等)の完全閉鎖型陸上養殖を手掛けている。立命館大学の総合科学技術研究機構の客員教授もしていて、フードテック(注1)に詳しい。大谷社長が開発した換水の必要がない飼育システムを使えば、アニサキス等の寄生虫の心配がない鯖の養殖が可能になるという。
甲賀で廃校となった校舎を借りて鯖を養殖し、クラウドファンディングを活用して海なし県(注2)の湖(うみ)なし市(滋賀県甲賀市は琵琶湖に接していない)が産地の「鯖寿司」として販売することを計画している。仮に「鯖街道」がかつて通っていた朽木あたりに廃校があって、それを利用して鯖を養殖できれば、「鯖街道」の復活と言ってもいいかもしれない。

(注1)食に関する最先端技術のことで、農林水産省は令和2年10月に産学官連携による「フードテック官民協議会」を立ち上げている。
(注2)海あり県のこともあった。『一二歳から学ぶ滋賀県の歴史』(滋賀県中学校教育研究会社会科部会編、サンライズ出版、2005年)によれば、廃藩置県後の1876年8月、滋賀県に福井県西部にあたる敦賀郡などが編入され、1881年2月に分離されるまでの5年間、滋賀県は日本海に面した県であった。

「鯖街道」という言葉には、人の想像力を掻き立てる魅力があるのだろう。今回、いろいろと資料を探していて、つかこうへいが亡くなった後に発見された、未発表作『小説&戯曲 鯖街道』(トレンドシェア、2011年)があることを知った。
一介の鯖担ぎ、すなわちカイドカセギから財閥の長にまで成り上がった人物の息子が主人公であり、五・一・五事件をからめて、冬場の「鯖街道」の寒さを理由に陰惨な物語が繰り広げられる。
小説には「特に冬の針畑峠の寒さと塩で身をひきしめられた冬の鯖はまた格別に美味しく、あの天子様でさえ隠れてお口になさると、まことしやかに囁かれておりました」というくだりがある。

想像を絶する寒さの中を鯖担ぎたちは京都へ向かったのに違いない。そのようにして届けられた鯖が絶品として珍重されたことに人間の欲深さを感じた。
さらに、元AKBの演歌歌手である岩佐美咲が、2017年1月のAKB卒業後に初めて発売したシングルが「鯖街道」であることもわかった。
秋元康が作詞を手がけ、「京は遠ても十八里」も歌詞に出てくる。恋人と別れた女性が一人で鯖街道を京都へ向かうという設定であり、人の気持ちを鯖にたとえて「腐りやすい」とする等、さすがは秋元先生である。

岩佐美咲の『鯖街道』youtubeより

いつかまた「鯖街道」沿いの「比良山荘」で「月鍋」に舌鼓を打ちたい。滋賀県産の「鯖寿司」とセットであれば最高の御馳走になることは間違いない。

(2021年6月6日)



鯖街道②

『週刊 日本の街道1 京都・若狭街道 鯖街道』より

 熊の肉はこれくらいにして、今回のテーマである「鯖街道」に話を進めよう。『鯖街道』(上方史蹟散策の会編、向陽書房、1998年)の「幾通りもの鯖の道」の中では「もともと、これが鯖街道と定まった道があったものでもないし、(中略)『鯖を運んだ道は、みな鯖街道だ』と答えねばならぬような状態にある」と書かれている。
 その根拠として、若狭小浜の町人学者といわれる板屋一助が明和4年(1767)に著わした『稚狭考(わかさこう)小浜から京にゆくに、丹波八原通に周山をへて長坂より鷹峯に出る道あり。(中略)此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり。(後略)」という記述を上げている
 本冊子は、五つのルートのうち「若狭街道ルート」、「鯖街道 湖のルート」、「根来・針畑越えルート」の三つについて詳しく説明しており、私が「比良山荘」へ行く時に通ったのは若狭街道ルート」の一部であることがわかる。欲を言えば地図を付けていただきたかった。

 土地勘のない私は地図を求めて、『週刊 日本の街道1 京都・若狭街道 鯖街道』(講談社、2002年)を買った。『日本の街道』全100冊の創刊号で、地図だけでなく写真が満載されていて、「京都・若狭街道(大原口~小浜)」と「もうひとつの鯖街道」として今津と海津から琵琶湖を介した二つのルートを取り上げている。これを見れば私でも「鯖街道」へ行った気分になることができる。
 「京都・若狭街道」の冒頭で「京都からなら、左京区の出町柳付近から国道367号線で八瀬、大原を北上。滋賀県朽木村を通り、今津町保坂から国道303号線に。福井県に入り、上中町熊川を経て、今度は国道27号線で小浜に至る約80㎞の道のりである」と説明されている。
 冊子の中程で「街道物語」としてまとめられた中に「早朝、若狭湾に水揚げされ、浜で一塩された鯖は、牛馬に頼らず人の手で京の都へ運ばれることが多かった。小浜から熊川の宿まで運ぶのは、おもに女性の仕事。お昼頃熊川に着いた荷は、『カイドカセギ(街道稼ぎ)』などと呼ばれた運搬人に託された」と書かれている。「京は(とお)ても十八里がカイドカセギの決まり文句だった。 

「街道物語」には「鯖寿司」についても説明がある。わかりやすい説明なので全文を引用させていただく。 

庶民にとって高嶺の花であった若狭の鯖は、江戸時代の中頃からの豊漁で、京の町人にも手の届くものとなった。この「一塩の鯖」の旨味をより引き出そうと、京の人々が生み出したのが「鯖寿司」である。
三枚におろし、酢でしめた一塩の鯖を、酢飯に乗せて棒状に形を整える。この上に、さらに白板昆布が巻かれることもある。これを竹皮で包んで一晩寝かせたのが「鯖寿司」。いちばん美味しい季節は、やはり鯖に脂がのった秋である。
家庭料理から始まり、天保年間(1830~44)には専門店ができるほど洛中で人気を得た「鯖寿司」は、それぞれの家が、味を競って、お祭りの日を祝う御馳走となった。そして、〝おすそ分け〟の風習とともに、京の祭りに欠かせないものとなっていった。 


前出の『鯖街道』(上方史蹟散策の会編)の「旧若狭街道―御食(みけ)(くに)若狭と古代帝都を結ぶ道―」の中で京都人は4月の葵祭や祇園祭(現在は新暦7月15日宵祭り、16日山鉾巡行が行われ、24日の後の祭は廃止された)等の祭りといえば、塩鯖をしめて鯖ずしを御馳走としてつくった。若狭の小浜から20里=80㌔の道を歩いて運ぶと、2日ないし3日行程で、ちょうどよい加減の塩まわりとなったであろう」と記載されている。
因みに『日本大歳時記 座右版』(講談社、1983年)によれば、「(すし)」は夏の季語である。解説では、鮓は元来、魚類を保存する方法をいい、塩づけや粕づけの他に飯をつかうようになり、して作った(なれ)は鮓を食べて飯は捨てたとされている。馴鮓の例として挙げられている中に「琵琶湖の源五郎鮒でつくった鮒鮓」と「京都の鯖の馴鮓」が両方とも載っている。
慶長ごろから、馴鮓が工夫され、酢で味付けし、重石で強く押して一日おいて飯も魚もともに食べるようになったそうで、「鯖寿司」もその一つである。したがって、(もと)をただせば、馴鮓として鮒鮓と鯖の馴鮓は親戚の関係にある。

(鯖街道③へ続く)

鯖街道①

自ら作成した鯖街道・略図

 琵琶湖側から比良山地を越えたところに、「鯖街道」と呼ばれる道があることは以前から知っていた。
 福井県の小浜と京都を結ぶ若狭街道の別称で、福井から山越えで一旦滋賀に入り、安曇川沿いを上流に向かって再び山越えで京都に入る。日本海で捕れる魚介類を運ぶルートだと聞いていた。
 しかし、なかなか行く機会がなかった。10年以上前に仕事で大津に暮らしていた時であれば、週末にその気になれば行くことはできただろうが、結局一度も行かないままに東京へ転勤になってしまった。
 それからも幾度となく滋賀を訪れ、湖西の安曇川の河口にある古墳へ行ったこともあったが、そこから川を遡り朽木谷といわれる安曇川が左にほぼ直角に曲がっている辺りへ行くことはなかった。 

 このたび鯖街道沿いにある「比良山荘」へ行くことができた。熊の肉を食べることができると聞いて以来、いつか行ってみたいと思っていたが、故郷の広島に帰省した帰りの日曜日に立ち寄った。
 休みの日に私のこんな道楽に付き合ってくれたのは、中学校の時からの友人の秋光伸二郎君と市橋正敬君である。私立の中高一貫に6年間通っていたが、秋光とは大学まで10年間同じだった。
 秋光は大阪で単身赴任をしていて市橋は川崎に住んでいたので、京都駅の八条口にあるMKタクシーの専用乗り場で待ち合わせることにした。

 MKタクシーを予約する時に行き先を「比良山荘」と告げると、片道で40分ほどかかると言われた。夕方の営業時間は午後5時からなので、午後4時からタクシーを予約した。会食の時間を3時間とすると、京都駅に戻るのは午後9時ぐらいになるので、東京の自宅に着くのは深夜になるとわかっていた。
 昼過ぎに広島の実家を出て、京都駅には午後4時の待ち合わせよりも早く着いた。MKタクシーの専用乗り場は八条口のすぐ近くだとわかっていたので、京都駅構内の土産物屋を覗いていたら思いのほか時間が経って、専用乗り場に着いた時は午後4時を少し回っていた。
 秋光と市橋は早めに来ていて、誘った方が遅れて申し訳ないとお詫びを言いながらワゴンのタクシーに乗った。ワゴンを指定した訳ではなかったが、「比良山荘」までの長時間のドライブにはとても快適だった。MKタクシーは料金が5千円を超える分は半額にする等の独自のサービスで知られている。

 大原口から「比良山荘」のある葛川までの間に、終点なのに「途中」というバス停があるのをタクシーの運転手さんが教えてくれた。名前の由来はウィキペディア等をご覧いただきたい。因みに、2021年3月のダイヤ改正により終点でなくなり本当に途中になったそうである。
 数日前に降った雪が道路脇に残っていたが車の通行に支障はなく、花折峠を越えて順調に「比良山荘」に到着した。営業開始の少し前だったが、玄関で名前を告げると中に入れてくださった。
 夕方の会食は予約制で他にも予約が入っていたが、我々が一番乗りで二階の部屋に案内された。古民家の調度品を眺めている時に、調子に乗って女将さんと一緒に写真を撮ってもらった。

  山菜などの前菜の後、「月鍋」(熊肉のしゃぶしゃぶ)が運ばれてきた。「熊の肉は、すべての肉の中でもっともピュアでうまい肉」と三代目当主が惚れ込み、試行錯誤の末たどりついたと「比良山荘」のホームページに書いてある。
 食事をしている時、ご当主の伊藤剛治氏自ら我々の席に説明に来られた。熊の肉はとても美味であり、一番強い熊が良い餌を食べているので最も美味しいと言われた。そのような熊は森の奥深くに棲んでおり、それを見つけて血が回らないように一発で仕留めるのが難しいそうだ。
 京都は年間を通じて熊は禁猟であるが、滋賀は冬期の数カ月間だけ熊の狩猟が認められている。ご当主が仕留めたボス熊の「月鍋」を堪能することができ、とても満足して帰路に付いた。

(鯖街道②へ続く)

2025年7月9日水曜日

プエルトリコ

 プエルトリコへは一度行ったことがある。30年以上前に仕事でニューヨークにいた時、独身だった私はクリスマスの休暇を一緒に過ごす相手がいなかったため、どこかへ旅行しようと旅行代理店に相談したところ、カリブ海のバージン諸島を勧められた。
 バージン諸島へは、ニューヨークからプエルトリコまでジェット機で飛んで、小さなプロペラ機に乗り換えた。ニューヨーク郊外のラガーディア空港から予定の便に搭乗しようとしたが、表示板になかなか出てこない。
 実は、私がいたのは国際線のターミナルで、そこでプエルトリコ行きは国内線であることに気づいた。プエルトリコはオリンピックでは単独の地域として参加するが、米国の準州であり(州より格下で議会に代議員がいない)独立国ではない。


 プエルトリコの空港は州都サンファンにある。プロペラ機の乗り換えまで時間があったので、空港を出て旧市街を抜けて北西の岬の突端にある「エル・モロ要塞」まで歩いた。
 他に行くところがなかったからであるが、スペインの植民地時代の要塞から大西洋を見ただけで、そのまま空港へ引き返した。途中、のどが渇いたので旧市街のバーでカクテルでも飲もうかと思ったが、治安が悪いと聞いていたので立ち寄らなかった。
 ゴンゾ(無頼派)ジャーナリストとして1970年代に活躍したハンター・S・トンプソンの『ラム・ダイアリー』には、そんなサンファンの様子が描かれている。空港に向かって北側の断崖にはスラム街が見えたが、今もそのままだろうか。

『ラム・ダイアリー』より

 バージン諸島には米領と英領がある。私が乗ったプロペラ機はプエルトリコを発って1時間ほどで米領バージン諸島の最大の島・セント・クロイ島にある空港に無事着陸した。
 空港からホテルまではタクシーに乗ったが、米国だから左ハンドルは当たり前として、左車線の道路を走っている。もともと英領の頃の左車線のまま、車だけが左ハンドルになったようだが、追い越しは大変である。もっとも車が少ないので危険は感じなかった。
 ホテルの部屋は瀟洒な感じで、料理も美味しかった。目の前の海ではシュノーケリングをしている人もいたし、ショートホールだけのゴルフ場もあった。独りはつまらなかったが、寒いニューヨークにいるよりマシなのは確かだった。


 プエルトリコやバージン諸島はラム酒の産地として有名である。自分へのお土産として、BACARDIのロゴが入ったTシャツとアルコール度数が80度近いラム酒を買った。
 ラム酒にはflammable(可燃性)と記載されていて、さすがの私もなかなか飲む気にならなかった。日本に帰国する前、国内に持ち込めるかどうか不安になり、誰かにあげたような気がする。
 Tシャツの方は帰国後も長い間持っていた。洗濯で縮んでしまい着れなくなったので、結局捨ててしまったが、BACARDIのロゴを見るとカリブ海へ行ったことを思い出す。あんな機会でもなければ行くことはなかっただろう。
 


2025年7月2日水曜日

コレヒドール島(Corregidor)

『フィリピンの戦い 太平洋戦争写真史』より

 上記の地図は『フィリピンの戦い 太平洋戦争写真史』(1980年、月刊沖縄社)から拝借した。653頁で大量の写真(正視に耐えないものを含む)を掲載し定価で15,000円もするこの本を古本屋で見つけた時、私しか購入する人はいないだろうと思った。私が購入する理由は、1995年4月から1997年3月までの2年間、仕事の関係でフィリピンのマニラで暮らしたからである。
 当時はラモス大統領で、米国のウェストポイント陸軍士官学校卒のエリート軍人であった彼の治世は現在よりも安全だったかもしれない。スーパーマーケットやショッピングモールの入口には銃を持った警備員がいて、買い物をして出てくる時にはレシートを必ずチェックされたが、身の危険を感じたことはなかった。もっとも駐在している日本人のほとんどは、入口に検問のある、ヴィレッジと呼ばれる地域で暮らしていたが。

 マニラにいる時、アメリカ在住の尊敬する先輩からコレヒドール島へ行くことを勧められた。「コレヒドール」という言葉はなぜか記憶にあったが、それがどこで何があったところかは知らなかった。コレヒドール島は、上記の地図でわかるとおり、北東へ大きく入り込んだマニラ湾の西の入口にある。
 この島は、太平洋戦争において2度、激戦地となった。1度目は1941年12月、米国極東軍最高司令官であったマッカーサーが"I shall return"という有名な言葉を残して撤退した後に日本軍が上陸した時、2度目は1945年10月、彼が再上陸した時である。周囲9平方メートルに過ぎないオタマジャクシのようなかたちをした小島は、2度にわたって完膚なきまでに破壊された。


『フィリピン戦跡ガイド』より

 今は観光地となっているコレヒドール島へはマニラから船で行くことができる。休日に船に乗ろうとチケットを買いに来た私に、日本人のカモと思ったのかポン引き風のフィリピン人が"Are you a Japanese?"と話しかけてきた。気に食わなかったので"So, what?"(「だったら何?」)と応えたら、それ以上は何も聞いてこなかった。
 コレヒドール島で見たものはよく覚えていない。『フィリピン戦跡ガイド』(2016年、社会批評社)を見ると地下要塞となったマリンタ・トンネルなどの写真が載っているが、そんなに記憶に残っていない。コレヒドール島へ行くことを勧めてくれた先輩に何かお土産と思って、現地の資料のようなものを買って送った。

 フィリピン人は優しい。日本にあれだけ酷い目に遭わされたのに、普通の対応をしてくれる。他の隣国の対応と比べて、フィリピンだけが違っている。日本からODAをもらっているからだと思うかも知れないが、太平洋戦争の直後は日本がフィリピンから援助を受けていたことがあったと聞いたことがある。かつてスペイン領でカトリック教徒が多いことと関係があると見る向きもあるが、もともとのフィリピン人の性質ではないかと思う。
 マニラで仕事の繋がりから友達になった人にフィリピン大学の教授がいた。少数民族であるイフガオ族出身の彼は、日本への国費留学生の経験があり、見た目も性格も日本人以上に日本人だった。ルソン島北部にある彼の故郷のバナウエを訪ねた時、「何もないところですが」と言いながら、鷹を真似た民族舞踊と田んぼで採れた大きなタニシのような貝でもてなしてくれた。

 マニラでも普通の日本人は行かない大衆食堂で、ディノグアン(「血のスープ」の意味)という豚の臓物を豚の血で煮込んだものを彼は教えてくれた。私が帰国した後、彼が国際会議で来日した時に新宿のガード下で一度飲んだことがあった。人の良さそうな顔をした女将は彼がフィリピン人だとわかると、勘定でボッタクリみたいな金額を言ってきた。彼は怒っていたが、私は日本人が恥ずかしくてそのまま支払った。
 残念ながら、彼は10年ほど前に病気で亡くなってしまった。しかし、フィリピンには、元国費留学生を始めとして日本に好意を持ってくれている人たちがたくさんいる。フィリピンへ行く日本人のタチが悪いせいで、フィリピンという国に対する日本人の印象は今いちかもしれないが、それは日本人が悪いと思う。
 私の手元には、フィリピン大学の教授だった彼がお土産に持ってきたUP(University of the Philippines)のTシャツが2枚ある。