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『週刊 日本の街道1 京都・若狭街道 鯖街道』より |
熊の肉はこれくらいにして、今回のテーマである「鯖街道」に話を進めよう。『鯖街道』(上方史蹟散策の会編、向陽書房、1998年)の「幾通りもの鯖の道」の中では「もともと、これが鯖街道と定まった道があったものでもないし、(中略)『鯖を運んだ道は、みな鯖街道だ』と答えねばならぬような状態にある」と書かれている。
その根拠として、若狭小浜の町人学者といわれる板屋一助が明和4年(1767)に著わした『稚狭考』の「小浜から京にゆくに、丹波八原通に周山をへて長坂より鷹峯に出る道あり。(中略)此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり。(後略)」という記述を上げている。
本冊子は、五つのルートのうち「若狭街道ルート」、「鯖街道 湖のルート」、「根来・針畑越えルート」の三つについて詳しく説明しており、私が「比良山荘」へ行く時に通ったのは若狭街道ルート」の一部であることがわかる。欲を言えば地図を付けていただきたかった。
土地勘のない私は地図を求めて、『週刊 日本の街道1 京都・若狭街道 鯖街道』(講談社、2002年)を買った。『日本の街道』全100冊の創刊号で、地図だけでなく写真が満載されていて、「京都・若狭街道(大原口~小浜)」と「もうひとつの鯖街道」として今津と海津から琵琶湖を介した二つのルートを取り上げている。これを見れば私でも「鯖街道」へ行った気分になることができる。
「京都・若狭街道」の冒頭で「京都からなら、左京区の出町柳付近から国道367号線で八瀬、大原を北上。滋賀県朽木村を通り、今津町保坂から国道303号線に。福井県に入り、上中町熊川を経て、今度は国道27号線で小浜に至る約80㎞の道のりである」と説明されている。
冊子の中程で「街道物語」としてまとめられた中に「早朝、若狭湾に水揚げされ、浜で一塩された鯖は、牛馬に頼らず人の手で京の都へ運ばれることが多かった。小浜から熊川の宿まで運ぶのは、おもに女性の仕事。お昼頃熊川に着いた荷は、『カイドカセギ(街道稼ぎ)』などと呼ばれた運搬人に託された」と書かれている。「京は遠ても十八里」がカイドカセギの決まり文句だった。
「街道物語」には「鯖寿司」についても説明がある。わかりやすい説明なので全文を引用させていただく。
庶民にとって高嶺の花であった若狭の鯖は、江戸時代の中頃からの豊漁で、京の町人にも手の届くものとなった。この「一塩の鯖」の旨味をより引き出そうと、京の人々が生み出したのが「鯖寿司」である。
三枚におろし、酢でしめた一塩の鯖を、酢飯に乗せて棒状に形を整える。この上に、さらに白板昆布が巻かれることもある。これを竹皮で包んで一晩寝かせたのが「鯖寿司」。いちばん美味しい季節は、やはり鯖に脂がのった秋である。
家庭料理から始まり、天保年間(1830~44)には専門店ができるほど洛中で人気を得た「鯖寿司」は、それぞれの家が、味を競って、お祭りの日を祝う御馳走となった。そして、〝おすそ分け〟の風習とともに、京の祭りに欠かせないものとなっていった。
前出の『鯖街道』(上方史蹟散策の会編)の「旧若狭街道―御食つ国若狭と古代帝都を結ぶ道―」の中でも「京都人は4月の葵祭や祇園祭(現在は新暦7月15日宵祭り、16日山鉾巡行が行われ、24日の後の祭は廃止された)等の祭りといえば、塩鯖をしめて鯖ずしを御馳走としてつくった。若狭の小浜から20里=80㌔の道を歩いて運ぶと、2日ないし3日行程で、ちょうどよい加減の塩まわりとなったであろう」と記載されている。
因みに『日本大歳時記 座右版』(講談社、1983年)によれば、「鮓」は夏の季語である。解説では、鮓は元来、魚類を保存する方法をいい、塩づけや粕づけの他に飯をつかうようになり、そうして作った馴鮓は鮓を食べて飯は捨てたとされている。馴鮓の例として挙げられている中に「琵琶湖の源五郎鮒でつくった鮒鮓」と「京都の鯖の馴鮓」が両方とも載っている。
慶長ごろから、馴鮓が工夫され、酢で味付けし、重石で強く押して一日おいて飯も魚もともに食べるようになったそうで、「鯖寿司」もその一つである。したがって、本をただせば、馴鮓として鮒鮓と鯖の馴鮓は親戚の関係にある。
(鯖街道③へ続く)
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