2025年7月30日水曜日

墓じまい

  私は広島県南部の呉市で生まれた。かつての軍港を見下ろす高台にあった借家に、祖母、両親、姉と私の5人で暮らしていたが、父が広島市の近くに家を建てたので、小学校3年の終わりに引っ越した。
 借家の玄関前は細い路地になっていて、路地を出て大きな通りを隔てたところに小学校があった。小学校の軒下にできた氷柱(つらら)をランドセルに入れて私が帰宅したことがあったと母が話していたが、それくらい近い距離だった。
 小学校のそばに戦艦大和の艦橋をかたどった塔があった。旧呉海軍工廠で戦艦大和が建造されたためで、1969年の第30回大和進水日(8月8日)を記念して建てられたというから、私が転校する前の年に当たる。

戦艦大和の塔

 幼い頃、父に連れられて近くの大きな公園で自転車の練習や凧揚げをした記憶がある。当時は今のように子供用の小さな自転車はなく、大人の自転車でいきなり練習をしたので、乗れるようになるまで何度も転んだ。
 凧は走って揚げると癖がつくので、風を使ってなるべく止まったままで揚げるように言われた。とても広い公園だったので電線にひっかかる心配もなく、新聞紙で作った足を自分で付けた奴凧を揚げていた。
 その公園のことを父は「れんぺいじょう」と呼んでいた。私はそういう名前だと思っていたが、大人になってから「練兵場」だったことに気づいた。旧海軍の第一練兵場は、現在、「呉市民広場」となっている。

呉市民広場(旧練兵場)

 広島へ引っ越した後も、墓だけは呉に残っていた。休山の登山口に続く道沿いにある市営墓地へ行く道路は狭くて、対向車とすれ違うのは大変だった。父の墓参りに母は呉駅からタクシーで行き、そのタクシーで駅まで戻っていた。
 母が亡くなって数年経ち、姉もなかなか行くのが難しいし、私自身お参りするのがしんどくなってきたので、このたび東京へ改葬し墓じまいすることになった。
 呉市役所に届を出し改葬許可証の交付も受けており、8月のお盆明けに工事請負業者の立ち合いのもと更地になったことを確認し、遺骨を受け取る手はずになっている。

休山から見た呉港

 我が家の墓の隣は呉で近所だった家の墓である。敷地の広さはほぼ同じであるが、二つの墓が立っている。一つは普通の墓だが、もう一つは立派な軍人の墓である。祖母が仲良くしていたおばあさんが軍人墓地から移転させたと聞いていた。
 おばあさんには三人の息子がいたが、長男は夭折し、次男と三男は戦死した。私の父も同世代であったが、理系に進んだので戦争へ行かずに済んだ。しかし、おばあさんの息子二人は海軍へ入った。
 墓石には次男の戦死は昭和20年初め、三男の戦死は同年8月1日と刻まれている。ボツダム宣言が発せられたのは同年7月26日、もうすぐ終戦記念日の8月15日を迎えるが、おばあさんはさぞかし無念であったろうと思う。



2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

縄文時代(=日本の新石器時代)には甕を棺桶に仕立てた墓など数多くが発掘されている。4万年前から始まる旧石器時代はどうか。遺跡は少ないが、地面を掘って魔除けのベンガラなどを敷いた墓らしきものがいくつか見つかっっているという。人間と他の動物を隔てる因子は沢山あるが、墓を作って死者に思いを馳せ、死者を偲んで記憶の中で生き続けるという事象は、人間特有なの一つなのだろう。

大鯰 さんのコメント...

コメント、ありがとうございます。究極的には墓がなくても思いや記憶があればいいのでしょう。「人生は記憶である」というエーコの言葉が思い出されます。