2025年10月30日木曜日

When October Goes

"When October Goes" youtubeより

 ニューヨークのブルックリン生まれのバリー・マニロウの曲である。私は10月の終わりになるとこの曲を思い出す。
 「10月が往く頃」という曲のタイトルが日本的だと思ったが、アメリカでも季節や年月が往くという感覚は共通なのだろう。
 曲の始まりは次のとおりである(拙訳は筆者)。

 And when October goes     そして10月が往く頃
 The snow begins to fly        雪が舞い始める
 Above the smokey roofs     鉛色の屋根の上を
 I watch the planes go by     飛行機が通り過ぎるのを見る
 The children running home     子供が家路を急ぐ
 Beneath a twilight sky      たそがれの空の下

 Oh, for the fun of them        嗚呼、みんな楽しみだった
 When I was one of them      私もその一人だった頃

 10月という冬の訪れを慈しんでいるように聴こえるが、歌詞の二巡目に入るとそうでないことがわかる。

 And when October goes      そして10月が往く頃
 The same old dream appears   同じ古い夢が現れる
 And you are in my arms        君は私の腕の中にいて
 To share the happy years     幸せな歳月を共に過ごす
 I turn my head away       私は顔をそむけて
 To hide the helpless tears       やるせない涙を隠す

 Oh how I hate to see October go    嗚呼、10月が往くのを見るのはなんて嫌だろう

 10月に別れた恋人を思い出し、幸せだった日々を懐かしんでいる。曲の終わりに向かってその気持ちは高まっていく。

 I should be over it now I know     乗り越えなければとわかっている
 It doesn't matter much      でもあまり変わらない
 How old I grow            どれだけ歳を取っても
 I hate to see October go        10月が往くのを見るのは嫌だ

もうすぐ10月が終わる。

2025年10月29日水曜日

Grandpa Kuma

 今回は、私がニューヨークで仕事をしていたときの同僚、Michelle Maiden(以下、ミシェルという)の絵本を紹介することとしたい。
 私がニューヨークにいたのは1990年の春から1年余りで、早いもので35年が経つ。思えば長い付き合いである。
 現在、ミシェルはイギリス在住で、このブログを読んでいる。日本語ができないので、googleで翻訳しているらしい。
 その割には反応が早く、メールでコメントを送ってくる。ブログを英語に翻訳して読んでいるのはおそらくミシェルだけだろう。

Amazonより

 彼女は以前から絵を描いていて、次のURL(michellemaiden.wixsite.com/illustrations)をクリックすると見ることができる。
 また、インスタグラム(https://www.instagram.com/michellemaiden_illustrations?igsh=MTZ1aHZxbHJyOTkzYQ==)もやっている。
 今回の絵本は2024年4月に発売されたが、それまで相当苦労したらしい。日本の書店で買うことはできないが、Amazonで購入可能である(https://tinyurl.com/3xczd96h)。

 ミシェルとは通路を挟んで隣の席だった。確か彼女からconstipation(便秘)という単語を教わったと思う。
 diarrhea(下痢)という単語しか知らなかった私がopposite of diarrheaと言うと、笑って教えてくれた。
 ミシェルの機嫌が悪い時、"Aren't you a little constipated?"(便秘気味じゃないのか)とからかったら、"You're gross!"(下品)とたしなめられた。

 最後は、ミシェルが"my favorite"(大好物)と言っていた奈良の伝統的なお菓子で終わることにしよう。
 それは"deer shit"、日本語で言うと「鹿のふん」である。形状が似ていることから付いた名前であるが、れっきとしたお菓子である。
 こんなことを書くと、"You're gross!"とまた言われそうだが、いい絵本なので購入をお勧めしたい。audio book付きで声も聴けます。
 

2025年10月28日火曜日

拙著の紹介

 私は、2012年6月に『「びわ湖検定」でよみがえる』、2017年10月に『やっぱり滋賀が好き』という2冊のエッセイを出版しています。
 2008年8月から2010年3月まで日本公庫大津支店に勤務した時の経験に基づき、2010年9月に第3回近江文庫ふるさと賞の懸賞に応募しました。
 大津支店に勤務している時に書いたのではなく、東京へ転勤する直前に本屋で募集要項を見て東京で6か月間かかって書き上げました。
 募集要項では400字詰め原稿用紙換算で300枚以上となっていたのに、ワープロの設定を間違えて500枚近く書いてしまいました。

第3回近江文庫ふるさと賞

 それまで会社の書類ぐらいしか書いたことがなかったので、多くの枚数が書けるだろうかと思い、細かく分けて書くことにしました。
 試しに、近江の自然、経済、歴史、文化に分けてテーマを考えてみたところ、50ぐらいのテーマを思い付くことができました。
 近江の自然や文物以外に、私が精神的に落ち込んで、「びわ湖検定」の受験などをきっかけに「よみがえった」ことを書いています。
 懸賞の商品として書籍化が決まっていましたが、本の出版により私の人生は大きく変わりました。現在に至る原点であり、ブログもその延長線上にあります。

『「びわ湖検定」でよみがえる』

 2冊目の『やっぱり滋賀が好き』は、1冊目で書けなかったことや書き足りなかったことをまとめて5年後に出版したものです。
 1冊目では懸賞のスポンサーに配慮して書けなかったことがありました。また、懸賞に応募する際、登場人物は仮名でした(出版時に了解を得て実名にしました)。
 2冊目は実名を出すことを前提に執筆し、滋賀のことだけでなく、私がお世話になった中小企業経営者の方々の素晴らしさについて書いています。
 私は日本公庫中小企業事業に34年間勤務し、中小企業経営者の方々に大変お世話になり、本の出版で感謝の気持ちを表すことができました。

『やっぱり滋賀が好き』

 ブログ『知命庵』をお読みになって私の書いたものに興味を持たれた方には、拙著の購入をお勧めします。
 1冊目と2冊目で内容的に繋がっている部分もありますが、どちらからでもお読みいただけるようになっています。
 購入を希望される方は、私のメールアドレス(skodama0601@gmail.com)宛てにご連絡ください。ご指定の住所にゆうメールなどでお送りします。
 価格は1冊目が2000円、2冊目が1800円で、僅かですが消費税と送料はおまけします(新刊の場合はAmazonより少しお得です)。

 因みに、1冊目も2冊目も私に著作権はありません。本が売れても儲かりませんが、書いたものを読んで欲しいという気持ちはあります。

(注)2冊の本について、出版社・新評論のホームページでの紹介ページはブログ『知命庵』からリンクしています。


2025年10月27日月曜日

御上神社

 囲炉裏「あみ定」で食事をした後、大津のビジネスホテルに泊まった。翌日、野洲にある三上山への登山を計画していた。
 しかし、天気が悪く雨となることが確実だと天気予報でわかったので、東京を出る前から御上神社の参拝に変更した。
 御上神社は三上山の山麓にあり、三上山を神体山として祀っている。、本殿は国宝であり、拝殿や楼門も国指定重要文化財である。

御上神社

 大津駅を始発で出発し、野洲駅に6時過ぎに着いた。野洲駅からはバスのつもりだったが、まだ走っていないので御上神社まで歩くことにした。
 駅南口からまっすぐ行った突き当たりを右折し国道8号線を道なりに歩いた。三上の交差点で登山口方面へ左折したため、道を間違えてしまった。
 御上神社は左手の山側だと思っていたが、国道8号線の右手だった。少し行き過ぎて間違いに気づき戻ったので1時間近くかかった。

本殿

 楼門をくぐって境内に入り、拝殿で参拝し本殿へ行こうとしたが、紐が張ってあって正面へ行けなかったので後ろを一回りした。
 楼門のところにあるおみくじを引いてから、休憩所でベンチに座りホテルで淹れたポットのコーヒーを飲んだ。おみくじはとても良かった。
 用事が済んだので、来た時と同じ道を野洲駅まで歩いた。約40分かかったが、毎朝1時間半の散歩をしているので苦にはならなかった。

本殿の説明板

 三上山は主峰が円錐型をしていることから近江富士と呼ばれているが、御上神社のあたりから見ても霧で隠れて頂上は見えなかった。
 地上は霧雨で大したことはなかったが、山の中は霧で大変だっただろう。今回は、やはり登山を中止して正解だった。
 次の機会に上る時には、コンパクトバーナーとキャンピングケットルを持参して、頂上でお湯を沸かしてコーヒーを淹れたい。

霧で頂上が見えない三上山

2025年10月26日日曜日

囲炉裏「あみ定」

  料亭「あみ定」のことは拙著『やっぱり滋賀が好き』の「瀬田川」の項で「あみ定」として触れている(147~149頁)。
 瀬田の唐橋で瀬田川を渡る途中の中州にあり、部屋から瀬田川を見ることができる。ボートを漕いでいる人もいて、のどかな光景である。
 今年4月に囲炉裏「あみ定」としてリニューアルオープンしたと聞いたので、このたび食事に出かけてみた。

瀬田の唐橋から見える囲炉裏「あみ定」の看板

 今回、私の食事に付き合ってくれたのは「近江の四季を楽しむ会」の佐藤さんと久保さんである。同会のことは拙著『「びわ湖検定」でよみがえる』で触れている(214頁)。
 同会を滋賀で開催しようということになり、お二人とも東京在住でまだ仕事をされているので週末のお昼にかけつけてくれた。
 料亭「あみ定」の元の女将さんも同席していただけることになり、華やかな席になった。私は本当に幸せ者である。

囲炉裏で炭焼きされる子持ち鮎

 お料理は「秋のコース」で、滋賀の食材を使った料理が並んでいる。この時期にしか食べられない子持ち鮎の塩焼きも追加することができた。
 お酒ももちろん滋賀の地酒で、「松の司」、「七本槍」、「浅芽生」、「浪の音」。どれを飲んでも美味いに決まっている。
 瀬田の唐橋にある囲炉裏「あみ定」で食事をすることで、まさに「近江の四季を楽しむ会」の趣旨に沿った開催となった。

囲炉裏「あみ定」から窓越しに見える瀬田の唐橋

 瀬田の唐橋は壬申の乱の時から存在する。戦乱のたびに焼かれ、姿や場所は変わっているが、こんな橋は日本のどこにも存在しない。
 京都から京阪電車で逢坂の関を越えれば瀬田の唐橋まで行くことができ、近くには紫式部が源氏物語を書いたことで有名な石山寺もある。
 囲炉裏「あみ定」が繁盛して欲しいと思うが、近江らしい静かな佇まいがいつまでも続くことを祈らずにはいられない。
 

2025年10月24日金曜日

Port Authority

  Port Authorityとは、ニューヨークのマンハッタンにあるバスターミナルのことである。私は2回行ったことがある。
 1回目はコンドミニアムの部屋の大家だったインド人のビジネスマン、いわゆる印僑の郊外の邸宅を訪ねた時だった。
 週末にPort Authorityからバスに乗るため、コンドミニアムから歩いて行った。無事に着いたが、大家が教えてくれたバスの発車場所がどこだかわからなかった。
 
Port Authority(Wikipediaより)

 警備員に尋ねようと胸のポケットからメモを取り出すと、「それは止めた方がいい。我々にはあなたが日本赤軍でないとはわからない」と警告された。
 ピストルを取り出すと判断して発砲する危険があるという意味だった。邸宅に着いて警備員にからかわれたと大家に話すと「それはマジだ」と言われた。
 私が「ニューヨークは人種のるつぼ(Melting pot)だから」と言うと、大家は「インドは3000年前からそうだ」と教えてくれた。


テディベア(Best Presentより)

 2回目にPort Authorityへ行ったのは職場のパーティの後だった。郊外行きのバスに乗るReceptionistの女性が「危険だからエスコートして」と言ってきた。
 イタリア系の若い頃はさぞかし綺麗だったと思われる中年の女性で、「米国に4種類の熊がいる」と言ってはいつも私をからかった。
 実際にいるのは、ホッキョクグマ、グリズリー、ブラックベアの3種類で、4つ目はテディベアというのがオチだった。


2025年10月22日水曜日

Honduras(ホンジュラス)

 ホンジュラスという国の名前を聞いて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。私はある人の名前を思い浮かべる。
 ニューヨークで仕事をしていた時、マンハッタンのコンドミニアムに住んでいた。そこでドアマンをしていた人を思い出す。
 彼は中南米の最貧国の一つと言われるホンジュラスの出身だった。ニューヨークへ出稼ぎに来ていた。

ホンジュラス共和国(外務省)

 コンドミニアムは、1st Ave.と53rd St.の交差点からイースト・リバーに少し下った北側にあった。下記の地図では国連本部の少し上になる。
 スタジオ・タイプといって、水回りを除いて部屋の区切りがなく一つの空間になっている間取りで、9階にあった。
 私は酔っ払ってエレベーターで吐いてしまったことがあったが、翌朝は綺麗になっていた。彼が掃除してくれたと後から知った。

マンハッタン
(地球の歩き方 2015~2016 別冊マップ)

 母がコンドミニアムに来た時も彼はとても親切だった。彼自身が家族と離れて暮らしていたからだろう。
 彼はいつも笑顔を絶やさず、ドアマンの中でも評判が良かった。私が帰国した後、彼からクリスマス・カードが届いた。
 2016年、25年ぶりにニューヨークを訪問しコンドミニアムで彼のことを聞くと、"passed away"と言われた。冥福を祈る。


2025年10月20日月曜日

New York, New York

"New York, New York" youtubeより 

 フランク・シナトラの"New York, New York"である。彼の曲と思っていたが、もともとは1977年公開の映画『ニューヨーク・ニューヨーク』で、ライザ・ミネリが歌っていた。
 私はニューヨークで少し年上の同僚がカラオケバーで歌ったのを聴いたのが最初だった。米国の大学を卒業し英語が堪能な人で、スローで難しい曲を上手に歌った。
 歌詞の最後の"It's up to you, New York, New York"がとても印象に残った。何度かカラオケで挑戦してみたが、歌も英語も上手くない私は途中で挫けてしまう。

"My Way" youtubeより 

 フランク・シナトラは"My Way"で有名である。日本でもいろんな人がカバーし邦訳されているので歌詞もよく知られている。
 中高年の男性が過去を振り返り、後悔がない訳ではないが自分の人生だったと歌うスローで渋い歌だが、"New York, New York"の方が私は好きだ。
 ニューヨークの自由な感じが出ているし、未来は自分次第というところがいい。全くそのとおりである、自分で決める以外にない。

"Can't Help Falling in Love" youtubeより

 話は変わるが、スローでいい曲として他に思いつくのは、エルビス・プレスリーの"Can't Help Falling in Love"である。
 "Wise men say. Only fools rush in."で始まる歌詞でわかるとおり、恋とは愚か者がすると相場が決まっているらしい。
 しかし、"Can't help ~ing"というイディオムと"fall in love"という言葉のとおり、恋とは落ちてしまうものでもある。 


 

2025年10月18日土曜日

天覧山

  昨日、天気予報どおり秋晴れの中、埼玉県飯能市にある天覧山に出かけた。標高は197mと低いが、手頃なハイキングコースとして人気がある。
 天覧山の名前の由来は、1883(明治16)年4月に明治天皇が山頂から近衛兵の演習を閲兵したことに始まるそうである。
 5時に自宅を出て最寄り駅から西武新宿線の本川越方面に乗り、所沢で乗り換えると6時半前には飯能駅に着いた。

天覧山・山頂

 飯能駅から天覧山まで徒歩40分かかるが、毎朝1時間の散歩をしているので苦にならない。20分ほど歩くともう登山口だった。
 能仁寺の東参道から入るとしばらく舗装された道が続き、土の道になってから山頂の直前で左右の道に分かれている。
 左の道を選択し進むと岩場で十六羅漢像が祀ってあり、急な石段を登り切って無事山頂に到着した。ちょうど7時だった。

山頂から富士山方面を望む

 低い山だが周囲に遮るものがないため、眺望は素晴らしい。上記の写真ではわかり難いが真ん中に小さく富士山が見えた。
 写真の左側では飯能の街並みと東京都心部のビル群を展望することもできた。明治天皇が閲兵の場所にした理由がわかる。
 しかし、今回の登山の第一の目的は頂上からの眺望よりも下記の写真のとおり淹れたてのコーヒーを愉しむことにあった。

淹れたてのコーヒー

 10月9日付けの「高尾山」の投稿のコメント欄で、ガスバーナーで湯を沸かしてコーヒーを淹れると書いて、実際にやりたくなってしまった。
 Amazonで評価の高かったイワタニのカセットコンロ式のコンパクトバーナーとCAPTAIN STAGのアルミ製のキャンピングケットルを早速購入した。
 自宅近くの珈琲豆焙煎所のドリップバッグで淹れたコーヒーはやはり美味かった。登山の目的を達成して10時前には自宅に戻っていた。
 

2025年10月17日金曜日

Beautiful Life

  フィリピンではほとんどの人が英語を話す。セブやミンダナオ島のダバオへも行ったが、英語が通じるので助かった。
 タガログ語が混じってタグリッシュと呼ばれるが、普通の英語も話せる。フィリピン人は日本人より発音が良いと思う。
 ゴルフ練習場の順番待ちで"kodama"と書いたら「クダマ」と呼ばれた。"da"にアクセントがあると"ko"の発音は「ク」に近い。

"Beautiful Life" youtubeより

 そのゴルフ練習場で、ボールボーイ/ガールの子供達が空いている時間にAce of Baseの"Beautiful Life"に合わせて踊っていた。
 子供達はゴルフ練習場でドライバーショットのティーの代わりに土の上にボールをセットする。日本ではマシンの仕事である。
 辛い仕事をしているのに、みんな楽しそうに踊っていた。それが上手くて忘れられない。日本のアイドルグループ顔負けである。

"My Deja Vu" youtubeより

 Ace of Baseには"My Deja Vu"(既視感)という曲もある。ボールボーイ/ガールの子供達の映像はいつまでも頭に残っている
 Ace of Baseは女性2人のボーカルに男性2人というメンバー構成とスウェーデン出身という共通点からABBAと比較されるが、かなり違っている。
 それにしても子供達が踊っていた曲が"Beautiful Life"というのは皮肉である。彼らの人生が "Beautiful"であることを祈る。



2025年10月15日水曜日

Macarena

 
"Macarena (Bayside Boys Remix)" youtubeより 

 前回の投稿でフィリピンにいた頃に流行っていた曲を取り上げたが、予想していた人からの反応が全くないので選曲を間違ったことに気づいた。
 その人は、Michael Learns to Rockの"That's Why"をカラオケでよく歌ったと言っていた。それなら今回の"Macarena"は知っているに違いない。
 スペイン人デュオのLos Del Rioが1993年にリリースした曲で、1995年にBayside Boys Remixのバージョンがシングルカットされ世界的に大ヒットした。

 マニラのフィリピン・バーでもよくリクエストされ、ステージの上で半分酔っ払った客がフィリピーナに手伝ってもらって歌っていた。
 曲がかかるとステージの前でフィリピーナ達が上手に踊り始める。その前に対面で踊る客も出てくるが、そんなに上手くはいかない。
 フィリピン人は日本人よりもきっと音感が優れている。セクシーで可愛いフィリピーナのマカレナ・ダンスを見て踊りたくならない人はいない。

2025年10月13日月曜日

Dream about You

  先日、マニラで仕事をしていた時に流行っていた曲のことを投稿したら、ある人から反応があったので、もう1曲紹介したい。
 スティービー・Bの"Dream about You"である。中南米の出身でスペイン語の方が得意なのか、非常にわかり易い英語の歌詞である。
 フィリピンはかつてスペイン領で米西戦争で米国に属したところがカリブ海の諸国と似ていて、マニラではメキシコの昼ドラが流行っていた。

"Dream about You" youtubeより

 同じCDに収録されていた"Waiting for Your Love"もわかり易い歌詞である。フィリピン人のメイドがよく聴いていたが、日本語みたいに聞こえる。
 遠くへ行ってしまった恋人を待ち続けるという何とも切ない曲であるが、幸せな境遇とは言えないメイドの気持ちに合っていたのだろうか。
 因みに、我が家は二人のメイドを住み込みで雇っていた。狭いメイド部屋で寝起きして、食事の世話や娘の子守をしてくれてとても助かった

"Waiting for Your Love" youtubeより

 スティービー・Bは日本では"Because I Love You"の方が知られているだろう。何かのCMに確か使われていた。
 The Postman Songというのは、"I got your letter from a postman just the other day."という歌詞で始まるからである。 
 いずれの3曲もシンプルなメロディにわかり易い歌詞が載っており、フィリピンだけでなく日本でも受けそうな気がする。

"Because I Love You"(The Postman Song) youtubeより

    リズミカルな曲やレゲエっぽい曲も得意としており、そちらもいい感じである。スペイン語で歌うとやはり上手い。
 スティービー・Bの甘く柔らかな声とまったりとしたメロディの感じがフィリピン人の好みに合っていたのだろう。
 今でも、暑い季節に風もなくてうだるような気分の時に、スティービー・Bの曲を聴きたくなることがある。


2025年10月11日土曜日

紫香楽宮(しがらきのみや)跡

 信楽は滋賀県南部の甲賀市にあって信楽焼で有名である。信楽がどこにあるか知らなくても、信楽焼の狸の置物を知らない人は少ないだろう。商売繁盛と書かれた通帳を持った狸が店先によく置いてある。
 今までに滋賀県について二冊のエッセイ集を出版したが、一冊目の第4章「経済」の中の「ものづくり県」で地場の伝統工芸として信楽焼のことを書いただけで、それ以外は信楽に触れてこなかった。
 その理由は信楽へほとんど行ってなかったからである。大津にいた時も信楽へは一度しか出かけていない。年一回の陶器祭の知らせが届いた時も、元気がなかったので行かないまま済ませてしまった。

大仏造立の都  紫香楽宮』より

 信楽を訪れようと思ったのは紫香楽宮を知ったからである。藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)の乱(740年)聖武天皇は東国へ行幸し、恭仁京(くにきょう)、難波京(なにわきょう)、紫香楽宮へ遷都した後、平城京へ戻った
 『大仏造立の都  紫香楽宮』(新泉社、2005年)にはこの彷徨詳し説明が記載されている今回、信楽へレンタカーで訪問することにして、おごと温泉に前泊した。紫香楽宮跡の近くでの宿泊も考えたが、温泉に泊まりたかった。
 朝風呂に入って雄琴港へ散歩に行き、琵琶湖の対岸の三上山から登る日の出を見ることができた。近江の食材がふんだんに使われた朝食を心ゆくまで楽しんでから、紫香楽宮跡へ向けて出発した。

大仏造立の都  紫香楽宮』より

 私の関心は紫香楽宮を巡る聖武天皇の彷徨ではなく「なぜ紫香楽宮という漢字が当てられたのか」という点にある。その答えとしてこれから書くことは、私の妄想であり根拠がある訳ではないことを予めお断りしておく。
 信楽の読みは新羅と同じ「しんら」である。因みに、古代史研究家の金達寿(きむたるす)氏は『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫、1985年)で「『シガラキ』というのは、もちろん新羅(しらぎ)ということばのなまったもの」と書いている。
 仮にそうだとして、信楽宮では何故だめだったのだろう。日本の都を新羅宮と呼ぶことを避けたのか。新羅に滅ぼされた百済と関係のある人々が嫌がったのか。何らかの理由で「信楽」ではなく「紫香楽」を用いたのではないだろうか。

MIHO MUSEUM 館内ご案内より

 紫香楽宮跡へ行く途中、MIHO MUSEUMに立ち寄った。信楽へ行くと友人に話したら訪問を勧められたからで、コレクションに驚いた。常設展示物をざっと見ただけだが、美術品に詳しくない私にも本物だとわかる。
 エジプト、ギリシャ・ローマ、西アジア、南アジア、中国・西域と順に展示され、その質の高さに圧倒された。古代の人は何故こんなものを造ることができたのか。同じものを現代の人は造ることができるのだろうか。
 足早にMIHO MUSEUMを後にしたが、紫香楽宮跡へ行く時間はもうなかった。カーナビで草津駅を目的地にすると同じ場所を何度も通る。最終的に信楽インターを目的地にしたら、インターの手前で紫香楽宮跡の横を偶然通過した。


 窯元を訪ねて信楽焼の狸の置き物を買いたいと思っていたが、それもおあずけになった。大津駅前の滋賀県観光物産情報センターで買って会社の事務所に置いていた狸を気に入っていたので、同じものを探していた。
 『やきもの鑑定入門』(芸術新潮編集部、1983年)の中で、土門拳が「わが信楽」として「信楽の壺にみられるそれらの魅力のすべては、天工になるものである」と言うとおり、信楽の魅力は土そのものの魅力である。
 また、信楽の窯業について、『やきもの鑑定入門』では紫香楽宮を造営した時に始まり、「恐らく、須恵器(無釉の陶質土器)の技術を持つ百済系の帰化人が、瓦や土管の製造にあたったことと思われる」としている

大仏造立の都  紫香楽宮』より

 新名神高速道路の信楽インターができたとはいえ、電車で行くには草津線を貴生川で信楽高原鉄道に乗り換える必要があり信楽は交通の便がいいとは言い難い。なぜここに聖武天皇は都を造ったのだろうか。
 前出の『大仏造立の都 紫香楽宮』によれば恭仁京から東北道が開かれたという。恭仁京の東からでる30余kmの山間の道であり、実際に歩いてみると尾根道で景観の良さに疲れを忘れると書かれている。
 現在の紫香楽宮跡は発掘後に田んぼに戻っており、展示室で出土遺物の一部を見ることができるらしい。それならば紫香楽宮跡の横をレンタカーで通過しただけで十分かもしれないが、いつか奈良から尾根道伝いに信楽を訪ねたい。

(2022年1月3日)

2025年10月9日木曜日

高尾山

 台風は本州に上陸しなかったものの曇天が続く日、久しぶりに高尾山へ登山に出かけた。通勤ラッシュによる渋滞を予想して、早朝6時に自宅から車で出発した。
 幸いさほどの渋滞には遭わず、高尾山の麓の薬王院自動車祈祷殿駐車場に7時半に着いた。駐車料金が500円と安いのでいつも利用している。
 駐車場からリフトやケーブルカーの乗り場がある登山口までは徒歩で5分ほどかかる。まだ登山客は少なく近所の人が店先を掃除していた。

高尾山(山と高原地図 高尾・陣馬、昭文社)

 山ガールという人から昔もらった地図を取り出して見ると、六つの登山コースがあることがわかる。①号線を選択し、リフトやケーブルカーの乗り場の手前から登り始めた。
 石畳の道が終わると勾配がきつくなった。左1回、右2回のヘアピンカーブを上っていると軽自動車が何台もカーブで切り返して追い越して行った。
 車の追い越しを待つのが休憩になり、最近体を少し鍛えているせいか、無事にケーブルカーの終点あたりまで登ることができた。出発から50分ほど経っていた。

高尾山薬王院の山門

 さらに歩き続けること40分、高尾山薬王院の山門に到着した。この山門から入って、右手の最後の階段を上ると本堂がある。
 高尾山薬王院は修験道の霊山である。『古寺名刹辞典』(1970年、東京堂出版)でも、「真言と修験の教行一致した道場」として紹介されている。
 744(天平16)年、行基菩薩の創建と伝えられるが、全国各地に行基開山を伝える寺は数えきれない程ある。行基と関係のある人たちが関わったのだろう。

飯縄権現堂の前の大天狗

飯縄権現堂の前の小天狗

 薬王院から高尾山の山頂までは、さらに20分ほどかかる。本堂の左手の階段を上っていくと飯縄権現堂の前に出た。
 修験道の山伏が天狗と同一視されて天狗信仰となり、団扇を持った大天狗と剣を構えた小天狗(別名烏天狗)の銅像が迎えてくれる。
 そこからまた階段を上って尾根伝いに歩いていくと、高尾山頂上(599m)に到着した。麓から約2時間で9時半になっていた。


 お天気は全く回復せず時々小雨が混じって肌寒かったが、いつもと違って空いているのでテーブル付きのベンチを確保できた。
 少し早いがお腹も空いたので、持ってきたおにぎりとサンドイッチを食べることにした。今回はポットに入った食後のコーヒーまで用意していた。
 食後は同じコースで下山したが、下りの分だけ早くなった。お土産に名物の「するさしのとうふ」を買って、11時半前に駐車場を後にした。



2025年10月7日火曜日

王仁(わに)博士

  先日、湯島聖堂へ行った日、知人と昼食をした後で上野公園へ出かけた。実は、夕食も別のメンバーと一緒にすることになっていて、時間を潰す必要があった。
 週末のお昼過ぎとあって外国人観光客などで混んでいたが、まず寛永寺開山堂へ向かった。開山堂は一般に「両大師」と呼ばれ、二人の大師が祀られている。
 一人は寛永寺を開山した慈眼大師天海で、もう一人は天海が尊崇する元三大師良源であり、おみくじの始まりと言われる元三大師のおみくじを引きたかった。

東叡山 寛永寺のパンフレットより

 上記の山内図のとおり、JR上野駅の公園改札口を出て国立科学博物館の前を通り過ぎると東京国立博物館の右手に開山堂はある。
 その日は元三大師の月命日で朝は法要が営まれたようだが、私が訪れた時には閑散としていた。しかし、ここにも外国人観光客の姿があった。
 お参りを済ませて寛永寺のパンフレットを買い、元三大師のおみくじを引いた。おみくじのことは拙著『やっぱり滋賀が好き』の元三大師の項(122~124頁)で書いたので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。

「上野公園マップ」より

 開山堂を出てから上野公園の案内図を見ていて、西郷隆盛の銅像の手前に王仁博士の碑(上記マップの赤で囲んだ左の方)があることに気づいた。
 今まで王仁博士のことを何も知らなかったが、あることがきっかけで百済から日本に渡来し、千字文(漢字)と論語(儒教)を伝えたとされる伝承上の人物であると、最近になって知った。
 記紀に記述されているが、伝承上の人物ということで学校で教わらなかったのだろうか。中学や高校の歴史の授業で聞いた記憶がない。

王仁博士の碑

 王仁博士の碑は昭和初期に朝鮮人の発起により、日本からも有名な政治家や思想家も協賛
して建立された。当時の時代背景もあったのだろう。
 私が王仁博士を知るきっかけとなったのは、来月に訪問予定の滋賀県・近江八幡市にある日牟礼八幡の「日牟礼」の由来である。
 日輪(太陽)から来ていると伝えられているが、和邇氏・日觸使主(わにうじ・ひむれのおみ)の「日觸」が転じたものとする説がある。

 和邇氏は応神天皇に縁の深い近江土着の氏族とされている。王仁は、日本書紀では王仁、古事記では和邇吉師(わにきし)と記されているらしいので、「和邇」と「王仁」が関係するのは間違いない。因みに、王仁は音読みすると「おうじん」となる。
 王仁は百済からの渡来人であるが、百済だけではなく新羅や高句麗からも海を渡って来たに違いない。近江には百済寺も新羅善神堂(三井寺)も高麗寺もある。
 渡来人が関係している古代史の話となると近江には多くの痕跡が残り、興味が尽きない。やっぱり近江は奥が深い。

2025年10月5日日曜日

湯島聖堂

  先週の金曜日、神田で知人とお昼を食べることになり、その前に散歩を兼ねて湯島聖堂へ行くことを思い付いた。
 神田明神へは何度も行っておりその途中で聖橋から湯島聖堂を見てはいたが、まだ一度も行ったことがなかった。
 事前にYoutubeで行き方を確認し、JR御茶ノ水駅の改札口を出て聖橋を渡って左の階段を降りて外堀通りを下るとすぐに入口があった。

杏壇門から入徳門を見下ろす

 仰高門から入って、孔子銅像を右手に見てから入徳門を潜って階段を上り、杏壇門から入って大成殿にお参りをした。
 外国人の数人のグループが大成殿をバックに記念写真を撮ろうとしていたが、私は罰当たりな気がして通り過ぎた。
 仰高門を出る手前の斯文会館で、近江聖人・中江藤樹の「致良知」のことも書いてあった『王陽明のことば』(斯文会、2005年)を購入した。

『王陽明のことば』(斯文会、2005年)

 斯文会館の受付の女性に、さだまさしの『檸檬』という歌の出だしの「あの日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて」といういうのはどこかと尋ねた。
 よく尋ねられるらしく、「イメージで書いたようだ」と答えつつ入徳門と杏壇門の間の階段ではないかと教えてくれた。
 もう一度行ってみたのが上記の写真だが、歌詞とは違って快速電車も各駅停車も見ることはできなかった(注)。

『檸檬』Youtubeより

(注)私の勘違いで歌詞では、聖橋から快速電車や各駅停車が見えるだけで、湯島聖堂から見えるとは言っていないことに今になって気づきました。
 




2025年10月1日水曜日

山本五十六

『大分県先哲叢書 堀悌吉』より

『大分県先哲叢書 堀悌吉』五峯録 山本文書 より

 9月が終わった。上記の写真と文書は、『大分県先哲叢書 堀悌吉 資料集 第三巻』(2017年、大分県立先哲史料館・編集)から拝借したものである。
 私は山本五十六元帥の声が録音されたテープを聞くことができる「如是蔵(にょぜぞう)博物館」へ行った際にこの叢書の存在を知り、親友だった堀悌吉との書簡が読みたくて郵送で一巻だけ購入した。
 五十六(敬称略)には遺書と言われるものがいくつかあるが、上記の「述懐」が戦死後に旗艦「武蔵」の長官私室の抽斗(ひきだし)から出てきたもので、日付は1942(昭和17)年9月末となっている。

 遡ること約10カ月の1941(昭和16)年12月8日未明に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が始まった。
 真珠湾攻撃を指揮したのは連合艦隊司令長官であった五十六で、米国との戦争に最後まで反対だったことは堀宛の書簡にも書かれている(下記参照)。
 五十六は名将か凡将か評価が分かれる。私の考えは後ほど述べるが、私の好きな五十六について今回は書いてみたい。

『大分県先哲叢書 堀悌吉』
五峯録 山本ヨリ堀宛書簡摘録 より

 生まれた時の父親の年齢から「五十六」と名付けられたことぐらいしか知らなかったが、阿川弘之の『山本五十六』(新潮文庫、1973年)を読んで、その印象が大きく変わった。
 五十六に関する本はたくさんあるが、私は阿川弘之の本が一番いいと思う。20歳年下の「千代子」さんのことが書かれているからである。
 遺族から抗議が出て訴訟問題にまで発展したため、阿川弘之は旧編を絶版とし、新資料による約三百枚の補筆を加えて『新版・山本五十六』を上梓した。

 五十六はワシントンの日本大使館で駐在武官だったし、ボストンのハーバード大学へ留学もしていたので、米国との戦争に反対だったのは理解できる。
 私もマンハッタンに約1年住んでいたが、ニューヨークのエンパイアステートビル、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ、全国各地のフリーウェイが戦前に既に存在した国と戦争して勝てるとは思えない。
 博打が好きでポーカーが強かったと言われる五十六は、タイミングを見て早めに和睦するしかないと思っていただろう。

私が住んでいた頃のマンハッタンの夜景
『マンハッタンかるちゃあスクール』より
(佐藤紘彰、フリープレスサービス、1990年)

 五十六が長岡の出身というのも不幸なめぐり合わせである。長岡は戊辰戦争で河井継之助が賊軍として薩長に敗れた。
 河井継之助と共に戦った山本帯刀の山本家を継ぐため養子となった五十六は、郷土の英雄として河井を尊敬していた。
 軍隊を支配する薩長の前で、米国に勝てないとわかっていても戦えないと口にすることは屈辱だっただろう。 

 阿川弘之の『山本五十六』には、「山本は、殉職者の名前を書きこんだ手帖をこっそり出して眺めて、よく涙を浮かべている事があった」とか、海軍次官時代に戦死したかつての部下の弔問の際に号泣したことが書かれている。
 五十六は将校としては情が深すぎたと私は思う。部下を犠牲にしても最後まで戦い、沈没する艦と運命を共にする艦長のような人が将校には望ましい。
 1943(昭和18)年4月18日、五十六はブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。5月21日に大本営から発表され国葬に付されたが、当時の国民は相当ショックだったに違いない。

「ブーゲンビル島」NHKより

 この戦死は自殺のようなものだと思う。暗号が解読されていたという話もあるが、旗艦の「武蔵」で指揮を取り前線へ行かなければ死なずにすんだ。
 しかし、米国との和睦が進まず勝てないことが明らかになった後、五十六に生きて戦後を迎える選択はなかったのではないだろうか。
 博打が好きで、20歳も年下の好きな人がいて、部下の戦死に号泣せずにいられなかった、そんな人間臭い五十六のことが私はどうしても好きである。