2025年5月28日水曜日

シュテファン・ツヴァイク

 

 『マリーアントワネット』や『ジョセフ・フーシェ』などの伝記で知られるシュテファン・ツヴァイク。『昨日の世界』は自伝であり、遺書でもある。
 ナチズムが席巻するヨーロッパを逃れてアメリカ大陸に亡命したツヴァイクは、第二次世界大戦勃発を目にして、ホテルの一室でただ記憶だけを手がかりにして本書を書き上げ、自ら命を絶った。

 『昨日の世界』の一節に次のような記述がある。
 「人が自分の人生から忘れ去るすべては、元来、内面の本能によってずっとそれ以前にすでに忘れ去るように定められたものなのである。ただみずから残ろうとする回想だけが、ほかのさまざまな回想にかわって残される権利を持つ。」

 つまり、人は記憶しなければいけないことは記憶している。逆に言えば、記憶していないことは記憶しなくてもいいことである。
 記憶が自らの都合のよいように書き換えられることはある程度仕方がないとしても、そういうことなのだろうと思う。

 








2025年5月26日月曜日

ウンベルト・エーコ

 

 イタリアの知の巨人と言われ、『薔薇の名前』の著者として有名なウンベルト・エーコの遺作『ヌメロ・ゼロ』(中山エツコ訳、河出書房新社、2016年)。その「あとがき」にエーコ自身の次の言葉があった。

 私たちの存在は私たち自身の記憶にほかならない。記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う。(206ページ)

 拙著『やっぱり滋賀が好き』の「あとがき」で、上記のエーコの言葉を引用しつつ、私は次のとおり書いた。

 過去を振り返るとき、共通の記憶をもつ人の存在は大切である。人は現在を生きているわけだが、過去を共有する人がいれば人生の楽しみは倍増する。すでに亡くなった人も、その人を記憶している人にとっては生きた存在なのだ。(219ページ)

 本当にそう思う。


2025年5月24日土曜日

元三大師像 大開帳

深大寺 元三大師堂
令和7年4月26日から6月2日まで東京都調布市にある深大寺で元三大師(がんざんだいし)像の大開帳が行われている。2メートルもある巨像で3年にわたる修理を経て開帳される。
深大寺は自宅から自転車で45分ほどで、これまでも何度か行ったことがある。5年ほど乗っているクロスバイクのタイヤを近々交換することになっており、それまでは長距離を乗らないように自転車屋から言われていたのでゆっくり出かけた。それでも午前9時過ぎには駐輪場に着いたので山門から入って左手の元三大師堂の前に進んだ。
私は元三大師について結構詳しい。拙著の『「びわ湖検定」でよみがえる』で大師との出会いに触れ、『やっぱり滋賀が好き』では生誕の地や母親のお墓がある寺まで訪ねている。火災で焼失した伽藍を再建したことから天台宗の「中興の祖」と言われ、生身の不動明王だとか、観音菩薩の化身だとかいう信仰が生まれた。
大津在住の際、元三大師の没後1025年を記念した企画展が大津市歴史博物館で開かれ、彫刻や絵画の元三大師像が一堂に展示されていた。一人の人間の彫像があれほどたくさん並んでいたのは後にも先にも経験がない。
そんなことを考えながら10時の拝観開始を待っていたら、もう元三大師像を見なくてもいいような気がしてきた。結局、大開帳を見ずに9時半過ぎに深大寺を後にした。

2025年5月18日日曜日

Native Fish of Lake Biwa

琵琶湖にしかいない魚たち
今森洋輔氏の細密画のポスター。大津市在住の際に琵琶湖ホテルの売店で見つけて購入し、東京で額装したもの。中央の雄姿がビワコオオナマズで本ブログの執筆者「大鯰」はそこから来ている。私とビワコオオナマズとの出会いについては、拙著『「びわ湖検定」でよみがえる』の「琵琶湖博物館」で触れている。

2025年5月17日土曜日

胡宮神社

写真①(日の出のレストイン多賀)

写真②(胡宮神社境内図)

写真③(敏満寺仁王門の説明板)

(広島から多賀SAへ)

レストイン多賀の専用駐車場で車を降りた時、「胡宮神社」と書いた標識があるのに気付いた。朝の散歩にちょうどいいのではないかと思って、フロントの人に「えびすみや」まで徒歩でどのくらいかかるのか聞いてみたが、きょとんとした顔をしている。「看板がありますよね」と言うと、「このみや」のことですかという返事があった。

 私が「えびすみや」と読み間違えたのは、広島に「えびす講」(胡子大祭)というお祭りがあるからである。広島市中心部のえびす通りに面した胡子神社のお祭りで、広島の三大祭りの一つといわれる。混雑するので私はまともに行ったことがないが、「胡」という漢字に見覚えがあって、「えびす」と読むと思ってしまった。

 4月22日付けで投稿した「レストイン多賀」で書いたとおり、道を間違えて「胡宮神社」へ行くことができなかったので、今回、広島から東京へ戻る際には必ず行きたいと思っていた。しかし、直前に思いがけない事故に遭い、行くことが危ぶまれる事態となってしまった。まずは、その事故の概要について触れる必要があるだろう。

 午前7時に広島を出発し、広島都市高速から山陽自動車道に入ってひたすら東に向かった。SAで適宜休憩を取りながら昼食を済ませて兵庫県に入ったあたりで、午後3時の休憩を大津SAで取ろうと考えた。大津SAに和菓子メーカーの叶庄寿庵が直営するカフェがあったことを思い出したからである。

 しかし、眠気と疲れで休憩を取る回数が多く、大津SAに着いた時は午後5時を過ぎていた。おやつというよりは夕食の時間になってしまったので、地下1階のびわ湖が展望できるレストランで早い夕食を取った。滋賀といえば近江牛しかないと思っていたら、ちょうど近江牛を使用した焼肉丼のような定食があったので、迷わずそれにした。とても美味しかったので、あっという間に食べ終わった。

 会計のレジで叶庄寿庵のカフェがまだあるかと尋ねると、外国人のような店員が「働き始めて1年なのでよくわからないが、カフェなら2階にあります」と教えてくれた。エレベーターで2階に上がって一回りしてみたが、それらしきものは見当たらなかった。後でネットで調べると、現在は閉店していることがわかった。

 大津SAから多賀SAまでそんなに時間はかからないと思っていたが、なかなか到着しなかった。その理由は、びわ湖が想像以上に大きく名神高速道路で走ってもそれなりに距離があるということと、やはり長時間の運転で相当疲れていたということなのだろう。この疲労が予想外の事故をもたらすことになった。

(予想外の事故)

 多賀SAの上り線側に車を停めて、高速を跨ぐ橋を歩いて下り線側にあるレストイン多賀に着いた。冒頭で触れた「胡宮神社」と書いた標識を見て、ホテルの入り口の階段を上り、フロントでチェックインした。説明もそこそこに部屋へ向かうと、前回と廊下を挟んだ対面の部屋だった。

 夕食は済んでいるので、風呂に入って寝るだけである。早速、大浴場へ行ってまずサウナに入った。12分計を見ながら大谷選手の背番号にあやかって17分まで出ないでいようとしたが、我慢しきれず16分でサウナを出た。少し温めの方の湯船につかってから、洗い場の椅子に座った。

 ところが、椅子からよろけてタイルの床にへたり込んで少し吐いてしまった。椅子に戻ろうとするが、腰が上がらない。それを見ていた人が心配してフロントに声をかけた結果、救急車を呼ぶ事態となった。私は「大丈夫だ」と言ったのだが、いつまで経っても椅子に戻れないので信用してもらえなかった。

 救急車が来る間に、やっと立ち上がることができ便意をもよおしたのでトイレへ行った。用を足して脱衣所の籐椅子に腰かけていたら、救急隊の人が来た。タオル一枚で股間を隠したまま「心電図を取りますがいいですか」と聞かれ、「まな板の鯉ならぬオオナマズだから言われるとおりにします」と答えたが、ちっとも受けなかった。

 心臓や脳に異常はなく、質問にもちゃんと答えるので一応大丈夫だろうと救急隊は判断していたが、潜在的な身体上の問題を抱えているかもしれず、みんな心配そうに私を見る。隊長と思われる人から「本人が病院へは行かないと言われるのであれば強制はできません」と3回言われ、用事があると言って病院行きを断った。

(胡宮神社)

 部屋に戻って2時間ほど横になっていたが、体を洗っていないのでベタついて気持ちが悪い。大浴場へ行くと何を言われるかわからないので、部屋にあるユニットバスに入った。気分はすっかり良くなっていたので、いつも通り体を洗うことができ、風呂上りにノンアルコールビールを飲んだ。

 一度は行くのを諦めかけたが、翌朝、胡宮神社へ散歩に出かけた。日の出は午前5時過ぎだったが、屋外が白んできたので4時半に部屋を出た。しかし、胡宮神社へ向かう道は薄暗くて気味が悪かったので、多賀SAの上り線側まで往復して時間をつぶすことにした。その時、跨線橋から撮ったのが写真①である。

 道が明るくなってきたので胡宮神社へ向かった。後からわかったが、私が歩いていたのは裏参道だった。柵のすき間から敷地に入った瞬間、その場所がただものではないと感じた。胡宮神社は敏満寺の敷地内にあったものであり、同寺は湖東三山に匹敵する規模であったという。写真②の「胡宮神社境内図」を見れば、それが良くわかる。

 ご神体は青龍山の頂上にある大きな岩であり、「滋賀県内でも数すくない山岳信仰の聖域である」と書かれた石碑があった。拝殿から大日堂、石仏、観音堂とお参りした後、表参道の階段を見下ろす場所に出た。帰りにまた上ってくることを考えると面倒だったが、大鳥居が見たくて下って行った。

 大鳥居は名神高速道路の高架橋の脇に立っていた。そのそばで昭和34年名神高速道路建設に伴った事前調査で敏満寺仁王門の跡が見つかった。県下でも有数の規模をもつ仁王門であったとされるが、その説明板(写真③)は名神高速道路の高架の橋桁の下にある。今では大鳥居の前に高速道路の下を潜って参拝することになる。

 (多賀大社との関係)

 胡宮神社と多賀大社のご祭神はいずれも伊邪那岐命・伊邪那美命である。胡宮神社がある敏満寺の創建は貞観年間(859-877年)から元慶年間(877-885年)とされ、一方の多賀大社は古事記に記載があるとされるが、胡宮神社がある敏満寺が相当古いことは疑いようがない。因みに、敏満寺は聖徳太子の開基であるというが、上記の説明版では敏満童子説が有力視されていると書かれている。

 前回の投稿で書いたが、胡宮神社という名前からして大陸から来た中国系の人々の信仰の対象であった可能性はあり、その場合はもともと中国系の神々が祀られていたとしても不思議ではない。仮に胡宮神社がそうだとしたら、多賀大社にも同じようなことがあったとは考えられないだろうか。

 私は多賀大社には三つの謎があると思っている。①これだけの神社でありながら近江の三之宮であること、②多賀大社の名物「糸切餅」が元寇に由来するものとされながら社伝に祈祷の記録がないこと、③最も重要なお祭りである古例大祭は別名「馬まつり」と言われ、とても変わった儀式があること、の三点である。

 これについては、拙著の『「びわ湖検定」でよみがえる』及び『やっぱり滋賀が好き」の「多賀大社」で記載したので、ここでは繰り返さない。要は、多賀大社のもともとのご祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命ではなかったということが歴史の中で隠されてしまったのではないかというのが私の妄想である。

 そういえば、私がレストイン多賀の脱衣所の籐椅子で救急車を待っていた時、隣の籐椅子に座ってとても心配してくれた人がいた。救急隊の診察を受けているうちにいつの間にかいなくなったが、体格が良くてお腹が少し出ていて敏満寺の大日如来の化身のような気がした。「どこへ行くのか」と聞かれて「東京まで」と答えたので私がドライバーだと思ったらしく、「もう大丈夫なんだけど」と言う私に「お互いドライバーは体があってのものだから」と宥めてくれた。

 レストイン多賀のフロントの人は私が早朝に胡宮神社へ行ったことに気づかなかった。チェックアウトの際に「もう顔色も良さそうですね」と言われ、サウナに入る時間は17分は長過ぎで自分でも12分が限界だと言われた。これからは12分計が1周するのを待ってサウナから出ることにしよう。

 (2025年5月20日)


2025年5月7日水曜日

Montauk Peak


 マンハッタンの東側にある横に長い島Long Island の東端の岬Montauk の灯台のポスター。大西洋の鯨を見ることができると聞いて、1990年の夏の休日にLong Island Railway に乗って出かけた。終点で降りて岬までの往復は自転車だった。アップダウンがあってかなり疲れたが、駅の近くのレストランで食べたbroiled flounder (ヒラメの塩焼き)が美味かったのが忘れられない。

Martin Luther King Jr.


 公民権運動の指導者で暗殺されたキング牧師の伝説的演説” I have a dream “の原稿のポスター。1990年にアメリカで購入したもの。同じDから始まる言葉でも、トランプ大統領のdealとはあまりに違う。


2025年4月22日火曜日

レストイン多賀

広島へ帰省するのに東京から車で行くことになって途中のレストイン多賀に泊まった。ハイウェイホテルでサービスエリアの片隅に専用の駐車場とホテルの入り口がある。
2階の受付まで階段だけでエレベーターがなく、キャリーバックを引きずる私にとってはバリアフリーでないのが残念だったが、大浴場があるのは有り難かった。
ツインの部屋はシンプルで快適だった。つかの間の休憩の後、早速大浴場へ向かった。長時間の運転に疲れた体には暖かいお風呂が心地良かった。
風呂から上がってサービスエリアへ夕食に出かけ、昼食が遅かったので、軽めにハンバーガーを食べた。
2回目の風呂の後に飲むビールを買おうとしたが、売店に見当たらない。売り子の人に聞くと、高速道路上なのでアルコール飲料は売ってないと教えてくれた。
その時、古い記憶がよみがえった。30年以上前に仕事でニューヨークに1年ばかりいた時、休暇にロサンゼルスへ旅行に出かけた。
空港でレンタカーを借りて、何マイルも真っ直ぐに続く道路をラスベガスへ向かい、グランドキャニオンを覗いて、モニュメントバレーの近くのモーテルに泊まった。
ビールでも飲もうと思って売店で聞いたところ、アルコール飲料はこの地域では販売していないと言う。車で何マイルか先へ行って地域から出ないとダメだと言われた。
地域というのはインディアンの居留区のことである。アメリカには州境と別にインディアンの部族ごとに決められた境界がある。
インディアンはアルコール依存度が高いので、アルコール飲料の販売が禁止されているというのだ。インディアンにアルコールと性病を持ち込んだのは白人と聞いたことがあるが、その結果がこんなことになるなんて迷惑な話である。
さて、レストイン多賀の入り口のそばに胡宮(このみや)神社への順路を示す看板があった。調べてみると、もともとは敏満寺(びんまんじ)の境内にあった鎮守社だそうである。
敏満寺は聖徳太子開基の天台宗の寺院で、湖東三山と並ぶほど盛えたとされている。この一帯は聖徳太子開基という寺院が多い。
しかし、「胡」は古代中国の北方・西方民族であり、中国からの渡来人と関係があるのではと思ってしまう。湖東三山の一つは百済寺(ひゃくさいじ)であり、朝鮮との関係があるに決まっている。
多賀から蒲生野にかけて琵琶湖と鈴鹿山地の間に平地が広がっている。大陸から日本海を越えて来た人達が琵琶湖を丸木舟で渡って、たどり着いたところに定住した可能性は十分あると思う。
翌朝の散歩に胡宮神社へ行こうとしたが道を間違えて行けなかった。レストイン多賀は名神高速の下りのサービスエリアにあり、そこから歩いて胡宮神社まで15分ほどなのに高速を跨ぐ歩道橋を渡って上りのサービスエリアへ行ってしまい、出発までもう時間がなかった。
でも悔やむことはない。実は広島から東京への帰りもレストイン多賀で一泊の予定になっている。その時に歩道橋を渡って胡宮神社へ散歩に行けばいい。