2025年6月6日金曜日

アーネスト・F・フェノロサ①


 2018
年の元旦のことだった。大晦日から家族でおごと温泉に泊まっていた私は一人で初詣へ出かけた。行き先は西教寺(さいきょうじ)である。200911月、特別に公開されていた角大師像を見たことがきっかけで元三大師に興味を持つことになった縁のあるお寺である。紅葉ならともかく初詣は人で混むことはないだろうと思った。

 西教寺は湖西線のおごと温泉駅と比叡山坂本駅の間の山麓にある。比叡山坂本駅の方が近いが徒歩20分はかかるし、旅館の送迎バスでおごと温泉駅へ行って湖西線に乗るのも面倒だったので旅館から歩くことにした。旅館を出るとき行き先を聞かれ「西教寺まで歩く」と答えたら「40分はかかる」と言われたが、実際は琵琶湖側から湖西線と湖西道路の下を通るところで道を間違えたので1時間以上かかった。

 思ったとおり参拝者はまばらで初詣はあっけなく終わった。少し物足りないので、近くの日吉大社の東本宮から西本宮へお参りをした。こちらもさほど混んでいなくて午前10時半には京阪電鉄の坂本駅に着いた。旅館に戻るには早いので、大津市役所の裏手の弘文天皇陵の手前にある新羅善神堂(しんらぜんじんどう)へ行った。前年のお正月にも行ったが、国宝というのに周囲を塀で囲まれ訪れる人もなく閑散としている。

  この新羅善神堂で元服したと言われる新羅三郎義光の墓へ行こうとして、三井寺(みいでら)の別院である法明院(ほうみょういん)に偶然立ち寄った。そこで初めてアーネスト・F・フェノロサの墓があることを知った。フェノロサという名前には何となく聞き覚えがあるものの、何をした人か思い出せなかった。ただ、外国人の墓が何故こんなところにあるのだろうと思って『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』(山口静一、宮帯出版社、2012年)という本を買い求めた。

 因みに、息子の高校の教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2016年)には、「明治の芸術」の中で「政府は初め工部(こうぶ)美術学校を開いて、外国人教師に西洋美術を教授させた。しかし、アメリカ人フェノロサや岡倉天心(おかくらてんしん)の影響のもとに、伝統美術育成の態度に転じて工部美術学校を閉鎖し、1887(明治20)年には西洋美術を除外した東京美術学校を設立した」という記述がある。

 その記述どおり、フェノロサはお雇い外国人教師として1878年(明治11年)に来日した。フェノロサを呼び寄せたのは同じようにお雇い外国人教師だったエドワード・S・モースである。モースについても、前出の教科書に「日本の近代科学としての考古学は、1877(明治10)年にアメリカ人のモースが東京にある大森貝塚を発掘調査したことに始まる」と出てくる。フェノロサやモースのことは忘れていても、大森貝塚を発見したのが外国人だったというのは不思議と記憶にある。

(アーネスト・F・フェノロサへ続く)

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