2025年6月7日土曜日

アーネスト・F・フェノロサ②

『フェノロサ夫人の日本日記』より

 米国のハーバード大学出身のフェノロサが東京大学で政治学や経済学を教えていただけであったならば、日本に葬られることはなかっただろう。
 1885年(明治18年)9月、なんとフェノロサはキリスト教から仏教に改宗し「諦信(たいしん)」の法号を授けられる。この時に共に改宗し「月心(げっしん)」の法号を授けられたのがウィリアム・S・ビゲロウである。ビゲロウは米国に帰国したモースの講演を聴いて日本に興味を持ち日本美術の蒐集家となる人物であるが、本稿のテーマはフェノロサなのでこれ以上は触れない。
 大学教授として来日した人物が教えを乞う立場の国で改宗する、学問と宗教の違いがあるとはいえ極めて衝撃的なことと言わざるを得ない。織田信長の時代に来日したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの『完訳フロイス日本史』(中公文庫、2000年)には仏教からキリスト教に改宗する人々のことが書かれているが、それと反対のことが起きたのである。
 その背景としてスペイン移民のフェノロサの父親がカトリックからプロテスタントに改宗したことの影響を挙げる説もあるが、「諦信」の法号を授けた三井寺法明院の阿闍梨(あじゃ)桜井敬徳(さくらいけいとく)の人となりが大きかったのだろう。
  『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』によれば、「敬徳は僧侶の肉食妻帯が認められても戒律を厳守し布教に命を懸ける高僧」であり、フェノロサは東洋と西洋の融合を謳った長詩『東と西』の自註で「師こそはまさに、精神界における騎士道の崇高なる規範であった」と書いているという。

 大学教授としての職務の傍らフェノロサは古美術品の蒐集を始め、次第に日本美術への傾倒を強めていく。1886(明治19)年には大学から文部省に転職し、岡倉天心とともに東京美術学校の創設に携わった。
 1890(明治23)年にフェノロサは帰国し、ボストン美術館に新設された日本美術部のキュレーターとして勤務した。その後、多忙なフェノロサの助手として採用されたのが、後にフェノロサの2番目の妻となるメアリだった。
 フェノロサは1878年の来日の直前に結婚している。結婚相手のリジ―は高校の同級生で初恋の女性であった。経済的な理由でリジ―の両親から反対されていたが、日本で高給を得ることが決まって結婚することできた。
 リジ―は社交的で活発な女性だった。『コスモポリタンの蓋棺録(がいかんろく) フェノロサと二人の妻』(平岡ひさよ、宮帯出版社、2015年)という本には「美しすぎる妻、リジ」という項があって自由な行動が描かれている。
 美人という点では、メアリも引けを取らない。『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』によれば、「ラフカディオ・ハーンを尊敬する美貌の文学少女で、男性たちの憧れの的でした」と書かれている。
 初婚の男性とは男の子をもうけた年に死別し、その後かつてボーイフレンドだったレドヤード・スコットから求婚される。日本で英語教師などをしていたレドヤードと再婚したが、1年あまりで別居し米国に戻って女の子を出産する。
 フェノロサの故郷であるボストン近郊の港町セーラムを題材にした『フェノロサと魔女の町』(久我なつみ、河出書房新社、1999年)では「美貌の彼女は、引っ込み思案の文学少女とはほど遠かった」とされている。

 1894年10月にボストン美術館の助手に採用された時、メアリは29歳、息子は9歳、娘は2歳で、レドヤードとの結婚は破綻していた。
 別居中の夫レドヤードが娘の親権を主張して起こした離婚裁判でメアリが敗訴したことをきっかけに、メアリとフェノロサは急速に接近する。『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』には「尊敬は次第に愛情に変わっていったものと想像されます」と書かれている。
 遂に1895年10月、フェノロサはリジ―と離婚し、12月にメアリと結婚する。フェノロサは42歳になっていた。このスキャンダルが原因となり、追われるようにしてフェノロサはボストン美術館を去っていく。
 二人が向かった先は日本だった。この時のハネムーンを兼ねた世界一周についてはフェノロサ没後100周年を記念して出版された『フェノロサ夫人の日本日記―世界一周・京都へのハネムーン、1896年』(村形明子編訳、ミネルヴァ書房、2008年)で読むことができる。表紙には、写真館で和服を着て和傘をさし息子と人力車に乗るメアリの写真が載っている。
 1896(明治29)年、フェノロサはメアリと三井寺法明院を訪れ、メアリも受戒し「光瑞(こうずい)」の法号を授けられた。『フェノロサ夫人の日本日記世界一周・京都へのハネムーン、1896年』の9月28日は次のとおり始まる。
 「今日の出来事はあまりにも神聖なので、この日記帳の日常茶飯事と同列に書き記すのは気がひけるが、無事保存するためここに書き留めておかなければならない。この部分はアーネストと私だけのためのものだ」
 メアリには文才があり、後日、シドニー・マッコールのペンネームで詩集や小説を出版しベストセラー作家となっている。

(アーネスト・F・フェノロサ③へ続く)

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