『コスモポリタンの蓋棺録』より |
社会的地位も分別もあったはずのフェノロサをメアリとの恋に走らせたのは、一体何だったのだろうか。
若くて美しい女性の魅力や先夫に娘を奪われた苦しみに対する同情に加えて、自分を理解してくれる姿に惹かれたのだろう。フェノロサは先妻との間に生まれた長男に「カノー」と名付けたほど、狩野派絵画を始めとする日本美術を愛していた。一方、既述のとおりメアリはラフカディオ・ハーンを尊敬しており、前出の日記でも日本で何度か会おうとしている。
最近読んだ歌人で細胞生物学者の永田和宏の『近代秀歌』(岩波新書、2013年)に、歌人の川田順について次のような記述があった。
「順の歌集を読むにつけて、年齢に伴う分別という言葉が領する領域と、熱情、恋情という年齢の支配を受けない感情が領する領域とは、遂には重なり合うことがないのだということを改めて実感するのである」
川田順は、住友総本社常務理事にまで昇りつめた人物であったが、1939(昭和14)年に妻に先立たれた後、歌の弟子となった人妻の鈴鹿峻子と結婚した。当時、「老いらくの恋」として流行語にまでなったが、順66歳、俊子39歳で、俊子には三人の子供があった。
1908(明治41)年9月21日、フェノロサは旅行先のロンドンで突然心臓発作により急死する。享年55歳であった。ロンドンに葬られた遺骨を日本に移葬したのはメアリである。一周忌にあたる1909(明治42)年9月21日、改めて火葬に付された遺骨は法明院に埋葬された。
メアリは、フェノロサの教え子の有賀長雄(ありがながお)に宛てた手紙で「かつて彼は、わたしと一緒に三井寺に葬られたいもの、と言ったことがあります」と書いている(『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』)。
最後に、本稿のきっかけとなった新羅三郎義光の墓について少しだけ触れる。義光は源頼義の三男で、後三年の役で活躍した源義家の弟に当たる。法明院から東海自然歩道を大津市歴史博物館の裏手へ行く途中にある土塚のような墓には訪れる人もないらしく、入口は雑木で塞がれていた。
(2018年2月9日)
4 件のコメント:
フェノロサ? あぁ岡倉天心の一味か仲間か何か? →つまり、ほとんど知らない、というか、フェノロサについて何も知らなかったが、このブログでフェノロサとの良い出会いをさせていただきました。純粋な人、おそらく。そして会ってお話すればきっと楽しい人。
ところで人間ならだれでも経験し、時に苦悩をもたらす恋愛〜フェノロサもメアリモも川田順も苦しんだ恋愛〜とは何か。実はこれ、恋愛とはホルモンのなせる仕業というか、ホルモンのイタズラであると小生は信じています。社会的身分も分別もホルモンには負ける。生物としての人間の宿命と考えます。Aspirant
コメント、ありがとうございます。生理的欲求であることは間違いないと思います。
学生時代近代画壇の黎明期に興味を持ち岡倉天心や横山大観に関して雑学したことがあります。フェノロサは彼等の指導者的な方と思ってました。指導者というより共感者的な存在かなと感じました。明治の初めに国立の美術大学を作ったことに当時感銘しました。楽しんで読まさせていただきました。広島より。
ありがとうございます。
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