2025年6月25日水曜日

永遠の嘘をついてくれ

 
『永遠の噓をついてくれ』youtubeより

 嘘にまつわる歌はたくさんある。端的に『うそ』というタイトルの曲もある。現在は日本維新の会所属の参議院議員となった中条きよしが1974年1月に発売したヒット曲である。
 「折れた煙草のすいがらで あなたの嘘がわかるのよ」で始まる演歌は、イケメンの中条きよしが女性の立場に立って歌うという設定が受けたのか、巷によく流れていた。 
 冷静に考えると、口紅が付いたすいがらが残っていたのならともかく、「折れた煙草のすいがら」だけで浮気を疑われていたら、世の中のお父さんはたまったものではない。


 松任谷由実の『最後の嘘』もよくできた曲である。「Tell a lie 最期だけ本当の嘘をついてよ 君が嫌いになったって」というサビの部分は、シンプルなメロディに乗って心に響く。
 「本当の嘘」というアイロニックな表現は、別れたくないのに別れなければならないという矛盾した状況にマッチして、一度聴いたら忘れられない。
 昭和を代表する女性のシンガーソングライターとして間違いなく三本の指に入る荒井由実(結婚後は松任谷由美) は本当に上手いと思う。


 最後に挙げるのは、タイトルになっている吉田拓郎の『永遠の嘘をついてくれ』である。ここでいう「永遠の嘘」とは、嘘を付いても一生付き通せば大丈夫といった世俗的なものではもちろんない。
 ニューヨークにいるはずの友が上海の裏街で病んでいると伝え聞いて、「永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ」と歌っている。
 字余りのある歌詞は吉田拓郎の得意とするところであり、吉田拓郎の作詞作曲だと長い間思っていた。

 吉田拓郎は作詞作曲だけでなく、歌うのも上手い。そんなに声がいいとは思わないが、淡々と歌うのを聴いているとさすがにシンガーソングライターだと思う。
 他の歌手が歌っても上手いが、本人には適わない。『襟裳岬』は吉田拓郎の作曲であり、森進一の独特な声が曲に沁みついているが、拓郎が歌う方が私は好きである。
 襟裳岬で元気を取り戻した人は苫小牧から仙台行きフェリーに乗る。その時の歌が『落陽』であり、二つの歌は繋がっていると思う。

 しかし、ユーチューブを見ていて、この曲が中島みゆきの作詞作曲であることを知った。吉田拓郎のライブで『永遠の嘘をついてくれ』の途中でゲストが呼ばれる。
 そのゲストが中島みゆきで、彼女はそのままセカンド・コーラスを歌い始める。これが実に上手い。あの男性的な声で自分の曲にしてしまう。吉田拓郎もお手上げである。
 吉田拓郎がかつてのように曲が作れなくて苦しんでいることを耳にした中島みゆきが吉田拓郎に提供した曲だそうで、よく聴くとやっぱり中島みゆきの曲だと思う。

 中島みゆきが荒井由実と並んで昭和を代表する女性のシンガーソングライターであることについては異論がない。問題は三人目であるが、人によって異なるだろう。
 それはさておき、この歌のモチーフである「永遠の嘘」の是非について、皆さんどのようにお考えになるだろう。
 方便的なものを除き、一旦嘘を付いたら謝らない限りそれを突き通すしかあるまい。そう考えるとやはり嘘は付かない方がいいと私は思う。
 

2025年6月22日日曜日

案山子(かかし)

 

『案山子』youtubeより

 案山子(かかし)を最近は見ることがない。というか、今までに案山子を実際に見たことがないような気もする。
 しかし、案山子がどんなものであるかは知っている。たぶん、本や雑誌で案山子の写真を見たのだと思う。
 さだまさしの『案山子』は1977年11月のリリースで、ちょうど私が大学進学のため上京した時期と重なっている。

 「元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る」で始まる歌詞は、私のように地方出身の学生にはドンピシャだった。
 また、「手紙が無理なら電話でもいい 『金頼む』の一言でもいい お前の笑顔を待ちわびる おふくろに聴かせてやってくれ」という部分は、携帯電話などなかった当時の状況をよくあらわしている。
 もう母は亡くなってしまったが、そんな気持ちではなかったのかと、今でもふと思って涙が出そうになることがある。

『加速度』youtubeより

 『案山子』が収録された、さだまさしのソロ3枚目のアルバム『私家集』(アンソロジィ)には初期の習作が詰まっている。
 最後から2番目の『加速度』という曲は、公衆電話から別れを告げる恋人の声に耳を傾けている歌である。
 「最後のコインが今落ちたから今迄のすべてがあと3分ね」という歌詞があるが、携帯電話があたり前の今の若い人には伝わらないだろう。

 当時、学生で個人の電話を持っている人は少なかった。下宿先の電話も管理人からの呼び出しというのが多かったと思う。
 恋人に電話するなら公衆電話が当たり前で、10円で3分だったから上記の会話が成り立つ訳であるが、それを「今迄のすべてがあと3分」と表現するのが上手い。
 電話加入権付きの固定電話を下宿に設置した時はとても嬉しかった記憶があるが、恋人ではなく故郷の家族と話すことの方が多かった。

『主人公』youtubeより

 『私家集』の最後の曲は『主人公』である。さだまさしのファンの人気投票では1位になる人気曲であり、「自分の人生は自分が主人公」ということが歌われている。
 「時には思い出ゆきの旅行案内書(ガイドブック)にまかせ 『あの頃』という名の駅で下りて『昔通り』を歩く」という歌詞で始まる。
 先日、大学時代の友人と久しぶりに会って昔話をした時、友人が「当時の下宿先へ行ってみたが何も残っていなかった」と話していた。

 下宿先に風呂が付いていることはなく近くの銭湯へ行っていたので、かぐや姫の『神田川』の歌詞の「小さな石鹸 カタカナ鳴った」は普通だった。
 その銭湯も残っていない。その後の宅地開発で跡形もなく消えてしまった。今では銭湯の入口で恋人が出てくるのを待つことなどあり得ない。
 時の経過はすべてを変えてしまう。『主人公』の歌詞のとおり、想像の中で過去へ遡ることはできたとしても、それを糧に現在を生きるしかないだろう。



2025年6月20日金曜日

サルビアの花

 

公園のサルビアの花

 記憶は視覚によって映像と繋がっている。私はこの花を見ると、必ず、もとまろが歌った『サルビアの花』を思い出す。
 1972年3月のリリースで、もとまろが青山学院大学の女学生たち3人のグループだったというのは後日知った。当時私は中学1年生で、こんな曲を普通に聴くことはなかったから、姉の影響を受けたのだろう。
 この曲を流していたニッポン放送系のラジオ音楽番組『コッキーポップ』やパーソナリティとして人気があった大石吾朗の名前はなんとなく記憶にある。
 「君のベッドに サルビアの紅い花 しきつめて」という歌詞の一部は、実際には見たこともないのに、ベッドの白いシーツと紅いサルビアの花のコントラストを想像させるには十分だった。

youtubeの『サルビアの花』



2025年6月13日金曜日

チェ・ゲバラ

『ゲバラ最期の時』の最終頁より

 ゲバラの生誕(1928年6月14日)から97年が経過した。1928年は昭和2年で、大正15年(昭和元年)生まれだった亡き父とほぼ同い年である。1959年7月にゲバラは訪日し、私の故郷の広島も訪問した。私はもう少し前に生まれてゲバラに会いたかった。
 ゲバラはアルゼンチン生まれの革命家で、医学生だったが革命に身を投じ、カストロと出会いキューバ革命を成功させる。しかし、キューバを離れ、最後はボリビアで銃弾に倒れた。1967年10月9日、享年39歳であった。 
 ゲバラの本名は「エルネスト・ゲバラ」で、「チェ・ゲバラ」の呼び名は、ゲバラが初対面の相手に「チェ」(スペイン語で「ダチ」といった砕けた呼び掛けの言葉)と挨拶していたことから付いたあだ名であり、それだけでも彼の人柄がわかる。戦闘帽を被った顔の写真はTシャツなどに使われ、若者の間でも人気がある。

 ゲバラの名前は知っていたが、革命家のイメージしかなかった。ところが、ある人から海堂尊(かいどうたける)の『ポーラースター1 ゲバラ覚醒』(文春文庫、2019年)が面白いと勧められ、読んでみて印象が変わった。海堂尊は巻末の女優の鶴田真由との対談「ゲバラは旅で成長した」の中で、次のとおりゲバラについて語る。
 「若き日のゲバラは、女性がいたら口説いてしまうような普通のあんちゃん。そういう若者が、いろんな経験をしてストイックな英雄になっていって、きっと苦しい思いもしたんだと思う」。一方の鶴田真由も「ゲバラはもともとはヒッピー的な要素を持っている人ですよね。文章を書くことがすごくお好きだったみたいですし。革命家じゃなかったらアーティストになっていた人だと思います」と言う。
 この本でのゲバラは無茶苦茶もてる。「やっぱりみんな、ゲバラに会うと恋しちゃうんですよね。実際に口説かれたかどうかは分からないけど、やっぱり優しい言葉をかけてもらって、『私は今、ゲバラに口説かれたんだわ』って思っている人がいたるところにいるなんて素敵です」と鶴田真由は対談で述べている。

 元衆議院議員で郵政改革担当大臣などを歴任した亀井静香はもっとも尊敬する人物としてチェ・ゲバラを挙げている。警察官僚出身であることから、革命の指導者であったゲバラを尊敬するということには違和感があった。
 しかし、亀井が警察官僚を退官し国会議員を目指したのは世の中を変えようと思ったからであり、その点はゲバラと共通するものがある。
 ルポライターの大下英治は『亀井静香 天馬空を行く(てんばくうをゆく)!』(2010年、徳間書店)の中で、自らを奮い立たせる亀井の気持ちを次のとおり記した。
〈自らを捨て、苦しむ民衆の救済に身を捧げたゲバラこそが、本当の政治家の姿だ。おれも、このまま終えるわけにはいかない〉

 ゲバラに関する映画の上映をきっかけに出版された『ゲバラ最期の時』(2009年、集英社)は作家戸井十月(といじゅうがつ)による渾身のドキュメンタリーである。
 その中で、ゲバラの遺体発掘について次のように触れられている。ゲバラの遺体は共同墓地の傍らに埋められ、1997年6月28日、死後30年を経て発掘された。7月12日、ゲバラの遺骨がボリビアからキューバに運ばれ、キューバは国を挙げてゲバラを迎えた。10月11日からの1週間が「ゲバラ追悼週間」と決められて棺が一般公開され、270キロのパレードをした後に遺骨が納骨堂に納められた。追悼週間の最終日の式典でカストロは次のとおり演説した。

〔私たちは、チェと、その同志たちに別れを告げに来たのではなく、出迎えのために来たのです。チェは、道徳の巨人です。彼のように純粋で、真の尊敬に値する人間の存在は、腐敗した政治家や偽善者がはびこる今こそ、より一層際立って見えます。チェの理想が実現していたら、世界は違ったものになっていたでしょう。
 戦士は死ぬ。しかし、思想は死なない。チェは、全世界の貧者の象徴として永遠に生き続けるでしょう。(後略)〕

 また、戸井十月は本の終わりに次のとおり書いている。
「死して41年。今なお人々の中で生き、歩き続けてる男が最も簡潔に、そして少しだけヒロイックに自分自身を表現している言葉を、この本の最後に置く。

〔もし我々が空想家のようだと言われるならば
 救いがたい理想主義者だと言われるならば
 できもしないことを考えていると言われるならば
 何千回でも答えよう

 そのとおりだ、と〕


2025年6月12日木曜日

豊島一族と太田道灌

 東京都練馬区にある石神井公園の三宝寺池のほとりに石神井城址がある。石神井城は中世武士の豊島氏の城で、南北朝時代には石神井郷を領有していたとされる。
 室町時代、城主豊島泰経(としまやすつね)は関東上杉氏の内部抗争に巻き込まれて江戸城主の太田道灌(おおたどうかん)に攻められ、石神井城は1477年(文明9年)4月に落城したと伝えられている。この豊島一族と太田道灌の闘いを「江戸にもあった関ケ原の戦い」と言う人もいる。
 1998年(平成10年)から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査で堀と土塁が見つかり、小規模な掘立柱(ほったてばしら)建物が建てられていたと考えられている。1967年(昭和42年)9月17日建と書かれた記念碑は字がよく読めないが、豊島・太田一族をともに供養する旨が刻まれている。

石神井城址の石碑と記念碑

 JR御茶ノ水駅の聖橋口を出て、池田坂のあるお茶の水仲通りを靖国通り方面へ下っていく途中に太田姫稲荷神社はある。左手に三井住友海上火災保険の立派なビルがある交差点の右手の片隅に石造りの鳥居がある。
 太田姫稲荷神社縁起と書かれた看板に古社名を一口(いもあらい)稲荷神社として説明が書いてあるわかりにくい説明であるが、もともと山城国(京都府)の南にある一口稲荷神社から、太田道灌の娘の病気の際に祈祷の品を授かって江戸城内本丸に神社を建立し、1457年(長禄元年)に江戸城の鬼門に移して太田姫稲荷大明神としたようである
 その後、1606年(慶長11年)の江戸城大改築の際に現在の場所へ移されたとのことであるが、江戸城内から太田姫稲荷神社の辺りまでは太田道灌の勢力が及んでいたと考えていいのではないかと思う。

太田姫稲荷神社

 豊島屋は神田猿楽町にある酒造業者で、東京における最古の酒舗といわれ、1596年(慶長元年)に創業者の豊島屋十右衛門(としまやじゅうえもん)が、神田鎌倉河岸(現在の千代田区内神田)で酒屋兼居酒屋を始めたのが起源とされている。
 豊島屋のホームページには豊島一族との繋がりについては触れられていない。豊島一族については、太田道灌に攻められ1477年(文明9年)4月に石神井城が陥落し、逃亡した城主の豊島泰経が翌年1月に再起を図ったものの、道灌に再び敗れたとされている。豊島屋十右衛門が創業する百年以上前である。
 豊島泰経は足立から北に逃げたと言われているが、その足取りは杳として知れない。石神井城址の西側に隣接して石神井氷川神社がある。神社の説明によれば、旧社地は「石神井川沿いの低地にあった」とも伝えられ、応永年間(1394~1428年)に豊島氏が大宮の武蔵一の宮・氷川神社の分霊を奉ったことに始まるとされている。
 境内には1699年(元禄12年)に豊島氏の子孫と称する豊島泰盈(やすみつ)・泰音(やすたか)親子が寄進した石灯籠が残されている。ということは、豊島一族は完全に滅んでおらず、豊島屋と何らかの関係があるのではないかと思ってしまう。
 
鎌倉河岸跡の説明版
(鎌倉橋を神田方面に渡った左側にある)

 太田道灌の息がかかった太田姫稲荷神社からそんなに離れていない神田鎌倉河岸で、豊島一族に繋がる人物が酒舗を始めるということがあるだろうか。石神井城の陥落から百年以上経っているとはいえ、豊島・太田一族の戦いは人々の記憶に残っていたに違いない。
 一方で、「道灌」という銘酒を造っている滋賀県草津市の太田酒造は、太田道灌公を遠祖に持つとホームページに書いている。お酒との関係は豊島一族よりも太田道灌の方がありそうな気がする。
 かつて筆者はこのような情報を基に歴史ミステリーのようなものを書きたいと思ったことがある。しかし、「牽強付会(けんきょうふかい)が得意」と言われたことのある私でもその時は上手く行かなかった。むしろ豊島屋という屋号を用いることで人々の話題になることを狙った巧妙な宣伝だったのかも知れない。




2025年6月8日日曜日

アーネスト・F・フェノロサ③

『コスモポリタンの蓋棺録』より

 社会的地位も分別もあったはずのフェノロサをメアリとの恋に走らせたのは、一体何だったのだろうか。
 若くて美しい女性の魅力や先夫に娘を奪われた苦しみに対する同情に加えて、自分を理解してくれる姿に惹かれたのだろう。フェノロサは先妻との間に生まれた長男に「カノー」と名付けたほど、狩野派絵画を始めとする日本美術を愛していた。一方、既述のとおりメアリはラフカディオ・ハーンを尊敬しており、前出の日記でも日本で何度か会おうとしている。

 最近読んだ歌人で細胞生物学者の永田和宏の『近代秀歌』(岩波新書、2013年)に、歌人の川田順について次のような記述があった。
 「順の歌集を読むにつけて、年齢に伴う分別という言葉が領する領域と、熱情、恋情という年齢の支配を受けない感情が領する領域とは、遂には重なり合うことがないのだということを改めて実感するのである」
 川田順は、住友総本社常務理事にまで昇りつめた人物であったが、1939(昭和14)年に妻に先立たれた後、歌の弟子となった人妻の鈴鹿峻子と結婚した。当時、「老いらくの恋」として流行語にまでなったが、順66歳、俊子39歳で、俊子には三人の子供があった。 

 1908(明治41)年9月21日、フェノロサは旅行先のロンドンで突然心臓発作により急死する。享年55歳であった。ロンドンに葬られた遺骨を日本に移葬したのはメアリである。一周忌にあたる1909(明治42)年9月21日、改めて火葬に付された遺骨は法明院に埋葬された。
 メアリは、フェノロサの教え子の有賀長雄(ありがながお)に宛てた手紙で「かつて彼は、わたしと一緒に三井寺に葬られたいもの、と言ったことがあります」と書いている(『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』)。

 最後に、本稿のきっかけとなった新羅三郎義光の墓について少しだけ触れる。義光は源頼義の三男で、後三年の役で活躍した源義家の弟に当たる。法明院から東海自然歩道を大津市歴史博物館の裏手へ行く途中にある土塚のような墓には訪れる人もないらしく、入口は雑木で塞がれていた。 

201829日)


2025年6月7日土曜日

アーネスト・F・フェノロサ②

『フェノロサ夫人の日本日記』より

 米国のハーバード大学出身のフェノロサが東京大学で政治学や経済学を教えていただけであったならば、日本に葬られることはなかっただろう。
 1885年(明治18年)9月、なんとフェノロサはキリスト教から仏教に改宗し「諦信(たいしん)」の法号を授けられる。この時に共に改宗し「月心(げっしん)」の法号を授けられたのがウィリアム・S・ビゲロウである。ビゲロウは米国に帰国したモースの講演を聴いて日本に興味を持ち日本美術の蒐集家となる人物であるが、本稿のテーマはフェノロサなのでこれ以上は触れない。
 大学教授として来日した人物が教えを乞う立場の国で改宗する、学問と宗教の違いがあるとはいえ極めて衝撃的なことと言わざるを得ない。織田信長の時代に来日したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの『完訳フロイス日本史』(中公文庫、2000年)には仏教からキリスト教に改宗する人々のことが書かれているが、それと反対のことが起きたのである。
 その背景としてスペイン移民のフェノロサの父親がカトリックからプロテスタントに改宗したことの影響を挙げる説もあるが、「諦信」の法号を授けた三井寺法明院の阿闍梨(あじゃ)桜井敬徳(さくらいけいとく)の人となりが大きかったのだろう。
  『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』によれば、「敬徳は僧侶の肉食妻帯が認められても戒律を厳守し布教に命を懸ける高僧」であり、フェノロサは東洋と西洋の融合を謳った長詩『東と西』の自註で「師こそはまさに、精神界における騎士道の崇高なる規範であった」と書いているという。

 大学教授としての職務の傍らフェノロサは古美術品の蒐集を始め、次第に日本美術への傾倒を強めていく。1886(明治19)年には大学から文部省に転職し、岡倉天心とともに東京美術学校の創設に携わった。
 1890(明治23)年にフェノロサは帰国し、ボストン美術館に新設された日本美術部のキュレーターとして勤務した。その後、多忙なフェノロサの助手として採用されたのが、後にフェノロサの2番目の妻となるメアリだった。
 フェノロサは1878年の来日の直前に結婚している。結婚相手のリジ―は高校の同級生で初恋の女性であった。経済的な理由でリジ―の両親から反対されていたが、日本で高給を得ることが決まって結婚することできた。
 リジ―は社交的で活発な女性だった。『コスモポリタンの蓋棺録(がいかんろく) フェノロサと二人の妻』(平岡ひさよ、宮帯出版社、2015年)という本には「美しすぎる妻、リジ」という項があって自由な行動が描かれている。
 美人という点では、メアリも引けを取らない。『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』によれば、「ラフカディオ・ハーンを尊敬する美貌の文学少女で、男性たちの憧れの的でした」と書かれている。
 初婚の男性とは男の子をもうけた年に死別し、その後かつてボーイフレンドだったレドヤード・スコットから求婚される。日本で英語教師などをしていたレドヤードと再婚したが、1年あまりで別居し米国に戻って女の子を出産する。
 フェノロサの故郷であるボストン近郊の港町セーラムを題材にした『フェノロサと魔女の町』(久我なつみ、河出書房新社、1999年)では「美貌の彼女は、引っ込み思案の文学少女とはほど遠かった」とされている。

 1894年10月にボストン美術館の助手に採用された時、メアリは29歳、息子は9歳、娘は2歳で、レドヤードとの結婚は破綻していた。
 別居中の夫レドヤードが娘の親権を主張して起こした離婚裁判でメアリが敗訴したことをきっかけに、メアリとフェノロサは急速に接近する。『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』には「尊敬は次第に愛情に変わっていったものと想像されます」と書かれている。
 遂に1895年10月、フェノロサはリジ―と離婚し、12月にメアリと結婚する。フェノロサは42歳になっていた。このスキャンダルが原因となり、追われるようにしてフェノロサはボストン美術館を去っていく。
 二人が向かった先は日本だった。この時のハネムーンを兼ねた世界一周についてはフェノロサ没後100周年を記念して出版された『フェノロサ夫人の日本日記―世界一周・京都へのハネムーン、1896年』(村形明子編訳、ミネルヴァ書房、2008年)で読むことができる。表紙には、写真館で和服を着て和傘をさし息子と人力車に乗るメアリの写真が載っている。
 1896(明治29)年、フェノロサはメアリと三井寺法明院を訪れ、メアリも受戒し「光瑞(こうずい)」の法号を授けられた。『フェノロサ夫人の日本日記世界一周・京都へのハネムーン、1896年』の9月28日は次のとおり始まる。
 「今日の出来事はあまりにも神聖なので、この日記帳の日常茶飯事と同列に書き記すのは気がひけるが、無事保存するためここに書き留めておかなければならない。この部分はアーネストと私だけのためのものだ」
 メアリには文才があり、後日、シドニー・マッコールのペンネームで詩集や小説を出版しベストセラー作家となっている。

(アーネスト・F・フェノロサ③へ続く)

2025年6月6日金曜日

アーネスト・F・フェノロサ①


 2018
年の元旦のことだった。大晦日から家族でおごと温泉に泊まっていた私は一人で初詣へ出かけた。行き先は西教寺(さいきょうじ)である。200911月、特別に公開されていた角大師像を見たことがきっかけで元三大師に興味を持つことになった縁のあるお寺である。紅葉ならともかく初詣は人で混むことはないだろうと思った。

 西教寺は湖西線のおごと温泉駅と比叡山坂本駅の間の山麓にある。比叡山坂本駅の方が近いが徒歩20分はかかるし、旅館の送迎バスでおごと温泉駅へ行って湖西線に乗るのも面倒だったので旅館から歩くことにした。旅館を出るとき行き先を聞かれ「西教寺まで歩く」と答えたら「40分はかかる」と言われたが、実際は琵琶湖側から湖西線と湖西道路の下を通るところで道を間違えたので1時間以上かかった。

 思ったとおり参拝者はまばらで初詣はあっけなく終わった。少し物足りないので、近くの日吉大社の東本宮から西本宮へお参りをした。こちらもさほど混んでいなくて午前10時半には京阪電鉄の坂本駅に着いた。旅館に戻るには早いので、大津市役所の裏手の弘文天皇陵の手前にある新羅善神堂(しんらぜんじんどう)へ行った。前年のお正月にも行ったが、国宝というのに周囲を塀で囲まれ訪れる人もなく閑散としている。

  この新羅善神堂で元服したと言われる新羅三郎義光の墓へ行こうとして、三井寺(みいでら)の別院である法明院(ほうみょういん)に偶然立ち寄った。そこで初めてアーネスト・F・フェノロサの墓があることを知った。フェノロサという名前には何となく聞き覚えがあるものの、何をした人か思い出せなかった。ただ、外国人の墓が何故こんなところにあるのだろうと思って『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』(山口静一、宮帯出版社、2012年)という本を買い求めた。

 因みに、息子の高校の教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2016年)には、「明治の芸術」の中で「政府は初め工部(こうぶ)美術学校を開いて、外国人教師に西洋美術を教授させた。しかし、アメリカ人フェノロサや岡倉天心(おかくらてんしん)の影響のもとに、伝統美術育成の態度に転じて工部美術学校を閉鎖し、1887(明治20)年には西洋美術を除外した東京美術学校を設立した」という記述がある。

 その記述どおり、フェノロサはお雇い外国人教師として1878年(明治11年)に来日した。フェノロサを呼び寄せたのは同じようにお雇い外国人教師だったエドワード・S・モースである。モースについても、前出の教科書に「日本の近代科学としての考古学は、1877(明治10)年にアメリカ人のモースが東京にある大森貝塚を発掘調査したことに始まる」と出てくる。フェノロサやモースのことは忘れていても、大森貝塚を発見したのが外国人だったというのは不思議と記憶にある。

(アーネスト・F・フェノロサへ続く)