2025年9月12日金曜日

9.11米国同時多発テロ

NHKニュースより


 9月11日の前後は、2001年9月11日に起きた米国同時多発テロのことがニュースで取り上げられる。私もこの事件は強く記憶に残っている。
 日本時間で火曜日の21時46分というから職場から帰宅していた。乳児の息子を風呂に入れようとしている時、テレビに衝撃的な映像が現れた。
 ニューヨークの世界貿易センタービルに何かが衝突し炎上している。背後にこれから突入しようとしているジェット機の姿が不気味に見える。

NHKニュースより

 10年前の1990年、私は仕事でニューヨークにいた。8月2日にイラクが隣国のクウェートに侵攻し、アメリカの対応が注目されていた。
 日本人駐在員が全員出席する会議で、アメリカがイラクを空爆するか否かについて挙手を求められ、空爆しないという人が大半だった。
 しかし、在米15年以上のある駐在員は空爆するに手を挙げた。理由は「アメリカは準備ができていない」というもので、その通りになった。
 空爆が始まった時は日本料理店で同僚と飲んでいて、テレビの空爆の映像をインベーダーゲームのようだと思った記憶がある。

CNNより

 湾岸戦争が始まり、地上戦が行われた。シュワルツコフ中央軍司令官とパウエル統合参謀本部議長は 記者会見で戦況を報告した。
 casualtyという言葉が聞き取れた。私は事故という意味しか知らなかったが死傷者のことだった。戦争で人が死ぬのは当たり前である。
 戦死者の遺体が入った棺桶は星条旗に包まれ、ニューヨークをパレードして民衆の喝采を浴び、ワシントンのアーリントン墓地に葬られる。

 アメリカは戦争がある方が求心力が高まるように思った。世界最強の軍隊を持つアメリカは毎年のようにどこかで戦争をしている。
 軍隊は戦死者を埋葬する墓地や遺族への恩給を含めて巨大なシステムだと思う。システムを持つ国は必要とあらば実力行使を辞さない。
 湾岸戦争が遠因となり米国同時多発テロは起きた。それから四半世紀近く経つが、戦争はなくならず不必要な死が繰り返される。

2025年9月10日水曜日

雨のウェンズデイ

『雨のウェンズデイ』youtubeより

 水曜日に雨が降ったので『雨のウェンズデイ』である。大滝詠一の大ヒットしたアルバム『A LONG VACATION』に収録されている。
 冒頭の『君は天然色』や太田裕美も歌った『さらばシベリア鉄道』が有名だが、ほぼ全ての曲が秀逸である。
 急変硬直化した彼女に嘆く『Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語』やワムの『ラストクリスマス』に似ている気がする『恋するカレン』もいい曲である。
 『雨のウェンズデイ』の「昔話するなんて気の弱い証拠なのさ」という歌詞は、こんなことを言ってみたいと思っていた。
 ウェンズデイは水曜日だから雨にかけてあると今頃気づいた。

"Saturday Night" youtubeより

  一週間の曜日を用いた歌はたくさんあるが、私の記憶に一番残っているはBay City Rollersの"Saturday Night"である。
 "S-A-T-U-R-D-A-Y night"の連呼で始まる歌詞はリズミカルなアップビートの曲に乗って、1976年1月に全米ナンバー・ワンになった。
 今聴いてもいい曲だとは思うが、よくよく考えると、週休二日制が導入される前の土曜日の夜が一番盛り上がる時代だった。
 今ならさしずめ「ノー残業デー」の水曜日や休日前の金曜日になるのだろうが、かつてのような盛り上がりは期待できない。


 仕事始めの月曜日の曲ということならば、Carpentersの"Rainy Days and Mondays"が一番だろう。
 ラブソングであるが、"Rainy days and Mondays always get me down"というサビの部分が心に響く。
 月曜日が 嫌なのは万国共通であり、雨となれば最悪である。今や年金生活の私には関係はなくなった。


安土城址

  一冊目のエッセイ『「びわ湖検定」でよみがえる』では、第5章「歴史」で安土城という項を設けている。そこで書いたとおり安土城址の入り口まで行ったものの、天主に登ったことがなかった。
 この度、近江八幡市のA社を訪問する機会に、安土城址に登ることを思い付いた。出かける前に安土城について勉強しておこうと思って買い求めたのが、デアゴスティーニ・ジャパンの『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』である。
 デアゴスティーニ・ジャパンはシリーズで冊子を発行し模型を組み立てたりするのが有名で、このシリーズはDVD付きで日本各地の名城を紹介している。DVDに加え図面や写真も豊富でわかり易い内容になっている。

品川から「のぞみ」に乗り、名古屋から「こだま」、米原から在来線に乗り替えて、9時前に安土駅に着いた。駅前のレンタサイクル店でインターホンを鳴らすと奥から人が出てきた。安土城址まで片道20分、天主まで登るというと2時間のレンタルになった。
 レンタサイクル店で教えられたとおり、一つ目の通りを左折して直進し二つ信号を過ぎて突き当りの神社を右折し、百々橋(どどばし)を渡ると安土城址の入り口に着いた。駐輪場に自転車を停めて大手道へ向かい、受付で700円の入場料を支払った。
入口に木の枝を切った杖が置いてあり、受付で「持って行ってください」と言われたので1本だけ手にしたが、それで正解だった。天主までずっと急な石段が続いている。歳のせいもあるだろうが、杖がないと登れないくらいだった。

天主跡
『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』より

 登り切ったところにある天主跡は意外と狭かった。周囲が土手のようになっていて、木の梯子を上って琵琶湖の方向を眺めた。大中の湖が干拓されるまでは城のある安土山は琵琶湖に突き出た岬だった。
 『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』に記載された安土城本丸復元図によれば、山頂は全て本丸御殿であったことがわかる。現在の二の丸や三の丸の跡も含むかたちで御殿が建てられ、その中心に天主がそびえ建っていたと考えられている。
 因みに、「天主」は信長の専売特許で、岐阜城、安土城、二条城、坂本城という信長に関係する城だけで使われているそうで、一般的には「天守」が使われている。

 山頂からの下りは順路に従って摠見寺(そうけんじ)本堂跡を経由するルートを取った。大手道に戻る手前に羽柴秀吉、大手道の向う側に前田利家の邸宅があったという。つまり、大手道の入り口は秀吉と利家に固められていたことになる。
 再びレンタサイクルに乗り、来た時と同じ道を安土駅まで戻った。お昼までは少し時間があったのでエレベーターで駅の反対側にある安土城郭資料館に行った。こちら側に来たのは初めてで資料館の存在も知らなかった。
 入館料200円を支払って資料館に入ると、まず安土城に関する簡単なビデオが放映される。来館者が数名まとまったところで、安土城を復元した模型が二つに割れ内部が見られるようになっている。 

安土城天主雛型・断面
『復元 安土城』(講談社選書、1994年)より

 安土城については、復元計画があるらしい。クラウドファンディングで必要資金の調達が検討されている。仮に復元されれば観光の目玉になるだろう。信長が天下統一を目前にして築いた城であり、西洋の城に匹敵すると言われた(注)。
(注)イエズス会の宣教師で信長との会見が18回におよんだルイス・フロイスは、その著書『日本史』で次のとおり書いている。
  
「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。(中略)そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。(中略)この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。」
   『完訳フロイス日本史3 安土城と本能寺の変 -織田信長篇Ⅲ』(中央公論新社、2000年)
 
 しかし、復元可能なのだろうか。名古屋城でも、鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建された天守閣が老朽化したため、木造復元が計画されているが難航している。
 加えて、大中の湖は埋め立ててしまっており、琵琶湖に面した水城であった面影を取り戻すことはできない。安土山の高台にある天主を琵琶湖に浮かぶ船から見上げることができれば最高の景色になったに違いないが。
 
 天主から下りて安土城址の受付を出て土産物屋に立ち寄った時、お店の方がお客に「石垣しかなくて」と話しているのが耳に入った。
 絶対君主の信長が贅を尽くして築いた絢爛豪華な安土城、それが残っていれば見事なものだったに違いない。しかし、信長が本能寺の変で倒された以上、安土城も焼失して良かったのではないだろうか。
 遺跡には失われたものだけが持つロマンがある。古代ギリシアのパルテノン神殿やローマのコロセウムも復元されてはいない。私は、頭の中で安土城を想像する方が拡がりがあって楽しい気がする。

近江国蒲生郡安土古城図(国立国会図書館所蔵)
『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』より

(2021年11月30日)

2025年9月3日水曜日

ムーミンパパ

 

『ムーミンパパの思い出』のムーミンパパ

 ムーミンパパのことはほとんどの人が知っているが、ムーミンパパがどういう人(妖精と言うべきか)であるかはほとんどの人が知らない。
 例えば「ムーミンパパの職業は何か」という質問にどれだけの人が答えられるだろう。私は「彼が小説家で、まだ一冊の本も出したことがない」ということを聞いたことがあるが、そのことを話すと大抵の人は「そうだったんですか」という顔をする。

 『ムーミンパパの思い出(新装版)』(2011年、講談社文庫)によると、ムーミンパパはみなしごだったそうである。第1章の書き出しは次のとおり始まる。
「ずっと前のことです。陰気な風のふくある八月の夕がた、ムーミンみなしごホームの階段の上に、ごくありふれた買い物用の紙ぶくろが一つ見つかりました。この紙ぶくろの中にいたのが、ほかでもない、このわたしでした。むぞうさに、新聞紙につつまれていたのです。」

 ムーミンパパの小太りで(ムーミン一族は全てそうである)優雅な姿からは想像もできないことで、私もそんなことは考えたことがなかった。
 しかし、言われてみればムーミングランパやムーミングランマなんて聞いたことがない。因みに、同じ外国のアニメキャラクターであるバーバパパは、絵本作家の「アネット・チゾンさんとタラス・テイラーさんが街角のカフェで、紙製のテーブルクロスにいたずら書きを交換しているうちに誕生しました」となっている。
 バーバパパもバーバグランパやバーバグランマは存在しないが、ムーミンパパの場合は、ムーミングランパやムーミングランマは存在していたが、捨てられてみなしごだったという点が異なっている。

 ムーミンパパは冒険家で、小説家である。『ムーミンパパの思い出』では、若い頃の冒険の日々を家族に語り、「思い出の記」に書き記す。
 小太りな体型(ムーミン一族は全てそうである)が似ていることから、肥満気味の中高年が集まって「ムーミンパパの会」と称しているのを聞いたことあるが、本当のムーミンパパは一生冒険家である。 
 『ムーミンパパの思い出』のプロローグで、夏風邪をこじらせて死ぬんじゃないかと心配になったムーミンパパは、ムーミントロールとスニフとスナフキンをよんでこさせ、三人に向かって次のとおりいいきかせる。
「おまえたち、ほんものの冒険家として、生きるのだよ。それをけっしてわすれてはならないよ」

 ムーミンパパの相方であるムーミンママは理想的な女性像(女性の妖精像と言うべきか)といったものだろう。
 ムーミンママは母性の象徴的存在で、いたずらばかりしているムーミンを見ても「アラ、アラ、アラ」と言うばかりで叱ったりはしない。
 体型的にふくよかであるが(ムーミン一族は全てそうである)、痩せているよりも少しふくよかな方が女性的と感じるのは私だけだろうか。特に中年になってからは、ふくよかな方がいいと思う。

『たのしいムーミン一家』のムーミンママ