2025年9月10日水曜日

安土城址

  一冊目のエッセイ『「びわ湖検定」でよみがえる』では、第5章「歴史」で安土城という項を設けている。そこで書いたとおり安土城址の入り口まで行ったものの、天主に登ったことがなかった。
 この度、近江八幡市のA社を訪問する機会に、安土城址に登ることを思い付いた。出かける前に安土城について勉強しておこうと思って買い求めたのが、デアゴスティーニ・ジャパンの『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』である。
 デアゴスティーニ・ジャパンはシリーズで冊子を発行し模型を組み立てたりするのが有名で、このシリーズはDVD付きで日本各地の名城を紹介している。DVDに加え図面や写真も豊富でわかり易い内容になっている。

品川から「のぞみ」に乗り、名古屋から「こだま」、米原から在来線に乗り替えて、9時前に安土駅に着いた。駅前のレンタサイクル店でインターホンを鳴らすと奥から人が出てきた。安土城址まで片道20分、天主まで登るというと2時間のレンタルになった。
 レンタサイクル店で教えられたとおり、一つ目の通りを左折して直進し二つ信号を過ぎて突き当りの神社を右折し、百々橋(どどばし)を渡ると安土城址の入り口に着いた。駐輪場に自転車を停めて大手道へ向かい、受付で700円の入場料を支払った。
入口に木の枝を切った杖が置いてあり、受付で「持って行ってください」と言われたので1本だけ手にしたが、それで正解だった。天主までずっと急な石段が続いている。歳のせいもあるだろうが、杖がないと登れないくらいだった。

天主跡
『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』より

 登り切ったところにある天主跡は意外と狭かった。周囲が土手のようになっていて、木の梯子を上って琵琶湖の方向を眺めた。大中の湖が干拓されるまでは城のある安土山は琵琶湖に突き出た岬だった。
 『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』に記載された安土城本丸復元図によれば、山頂は全て本丸御殿であったことがわかる。現在の二の丸や三の丸の跡も含むかたちで御殿が建てられ、その中心に天主がそびえ建っていたと考えられている。
 因みに、「天主」は信長の専売特許で、岐阜城、安土城、二条城、坂本城という信長に関係する城だけで使われているそうで、一般的には「天守」が使われている。

 山頂からの下りは順路に従って摠見寺(そうけんじ)本堂跡を経由するルートを取った。大手道に戻る手前に羽柴秀吉、大手道の向う側に前田利家の邸宅があったという。つまり、大手道の入り口は秀吉と利家に固められていたことになる。
 再びレンタサイクルに乗り、来た時と同じ道を安土駅まで戻った。お昼までは少し時間があったのでエレベーターで駅の反対側にある安土城郭資料館に行った。こちら側に来たのは初めてで資料館の存在も知らなかった。
 入館料200円を支払って資料館に入ると、まず安土城に関する簡単なビデオが放映される。来館者が数名まとまったところで、安土城を復元した模型が二つに割れ内部が見られるようになっている。 

安土城天主雛型・断面
『復元 安土城』(講談社選書、1994年)より

 安土城については、復元計画があるらしい。クラウドファンディングで必要資金の調達が検討されている。仮に復元されれば観光の目玉になるだろう。信長が天下統一を目前にして築いた城であり、西洋の城に匹敵すると言われた(注)。
(注)イエズス会の宣教師で信長との会見が18回におよんだルイス・フロイスは、その著書『日本史』で次のとおり書いている。
  
「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。(中略)そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。(中略)この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。」
   『完訳フロイス日本史3 安土城と本能寺の変 -織田信長篇Ⅲ』(中央公論新社、2000年)
 
 しかし、復元可能なのだろうか。名古屋城でも、鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建された天守閣が老朽化したため、木造復元が計画されているが難航している。
 加えて、大中の湖は埋め立ててしまっており、琵琶湖に面した水城であった面影を取り戻すことはできない。安土山の高台にある天主を琵琶湖に浮かぶ船から見上げることができれば最高の景色になったに違いないが。
 
 天主から下りて安土城址の受付を出て土産物屋に立ち寄った時、お店の方がお客に「石垣しかなくて」と話しているのが耳に入った。
 絶対君主の信長が贅を尽くして築いた絢爛豪華な安土城、それが残っていれば見事なものだったに違いない。しかし、信長が本能寺の変で倒された以上、安土城も焼失して良かったのではないだろうか。
 遺跡には失われたものだけが持つロマンがある。古代ギリシアのパルテノン神殿やローマのコロセウムも復元されてはいない。私は、頭の中で安土城を想像する方が拡がりがあって楽しい気がする。

近江国蒲生郡安土古城図(国立国会図書館所蔵)
『隔週刊 日本の城 DVDコレクション 7 安土城』より

(2021年11月30日)

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私も安土城があったらなーと思います。見たかったですね。

大鯰 さんのコメント...

コメントありがとうございます。安土城が燃えた原因も諸説あり、定かではありません。残っていれば、徳川幕府の一国一城令でも取り壊せなかったのではないかと思いますが。

匿名 さんのコメント...

私は昭和47年社会人1年目に登った思い出があります。初めての年休を平日にとり天守閣跡地に立ったときの侘しさをよく覚えています。登っていく途中誰ともあわず、荒れ果ててまして、まさしくつわ者共の夢の跡と感慨を持ちました。再建は止めてほしいです。本田政生

大鯰 さんのコメント...

ご無沙汰しております。コメントありがとうございます。その当時とあまり変わっていないと思います。摠見寺が管理するようになって入場料を取るようになったぐらいでしょうか。滋賀の人は不満かもしれませんが、変わらないところが近江の良さだと思います。